第2話(8)

 準備運動をしながら、純は鳳佳の方を見た。

「楽しんでやればいいよ。 “下手だ”とか、“失敗した”とか、気にしないこと」

屈伸運動をしながら、コクコクと頷く鳳佳。

「…」

声がなくとも、緊張しているのが空気を伝って、純にもわかる。

「そんな緊張しなくてもいいよ、遊びなんだから」

笑いながら純が言うが、鳳佳の緊張は抜けない。

(まぁ、仕方ないか……)

「バスケしたことある?」

この問いに、鳳佳は首を横に振る。

「ボールを触ったことは?」

またも横に振る。

(触ったこともないのか……)

と言うことは、ドリブルもシュートも初めてということになる。

1on1のような複雑なことは、到底できない。

(──……いや、複雑なことをする必要はないんだ。 鳳佳をこっちのペースに引き込むことさえ、できればそれで良い……)

純は考えながら、無意識にボールを弄び始める。

指先でクルクルと地球儀のように回したかと思うと、床に数回つき、脚の下をくぐらせて、逆の手に持ち、まるで新体操の選手のように、ボールを掌から転がして、首の後ろを通すと、元の右手に戻した。

軽々とそんな芸当をやってのける純の姿に、鳳佳は薄く口を明け、ぽーっと見惚れていた。

「よし! じゃあ、始めよっか」

ニッと笑って、純がボールを小脇に抱える。

ハテナマークを浮かべて、首を傾げる鳳佳に、純は言った。

「ルールは簡単!」

人差し指を伸ばし、純が宣言する。

「『鳳佳がアタシからボールを奪えたら勝ち』。 それだけ!」

腰を落として構えを取り、純がボールを床につき始める。

一瞬、彼の醸し出す雰囲気に圧倒されたが──鳳佳は息を飲んで唇をキュッと結ぶと、彼の動きを注視し始めた。

“やってみよう”と、決意したのだ。

(そうだよな。 それでこそ、オマエ・・・だ)

臨戦態勢に入った彼女を見て、純が心の中で微笑む。

「!」

キュッと靴底ソールが床を擦る音がして、鳳佳が駆け出した。

(おっ──!)

迫ってくる鳳佳を、ひらりと回避かわして、純が心の中で驚く。

思っていたよりも、動きは悪くない。

むしろ、予想の倍以上、動けている。

(運動はからっきし・・・・・なイメージだったけど、全くそんなことないんだな。 こりゃ、面白い)

すぐに身を翻して、軌道を修正し、鳳佳が向かってくる。

──が、またしても、純は軽い動作で避けた。

「ほらほら、どんどん来なよ」

巧みなハンドリングで、鳳佳を挑発する。

(大丈夫、惑わされんな。 お前ならできる)

行動とは裏腹に、心の中で彼女を鼓舞する純。

再び、鳳佳が迫る。


ヒュッ……!


ボールを取ろうと伸ばした彼女の手が、純の腕に当たった。

「…っ」

一瞬、鳳佳がこっちを気遣う素ぶりを見せたが、純は無視する。

(怖がるな……大丈夫だから……)

不敵な笑みで、まるで糸でも付いているかのようにボールを操り、鳳佳と一定の距離を保つ純。

何度、彼女が詰め寄っても、軽いステップを踏んで、まるで陽炎かげろうのように避けてしまう。

だんだんと、翻弄される鳳佳の息が上がってきた。

額には、玉になった汗が見える。

(もう少し……もう少しだ……)

純が少し距離を縮める。

すかさず、鳳佳が一歩踏み出す──が、やはり躱される。

さらに踏み込む。

あと少し足りない。

さらに、距離を詰める──


ガクッ!!


「ッ!!」

ついに、足がもつれ・・・て、鳳佳がバランスを崩した。

床に片手をついて、ギリギリ体勢を保つ。

「大丈夫?」

ドリブルを続けながら、純が声を掛ける。

ゆっくりと立ち上がり、くるり、と彼の方を振り返る鳳佳。

頬を伝う汗を、手の甲で拭う──


「!」


その瞳を見て、純はニヤリと笑った。

鳳佳の眼は、何人ものバスケ選手と対峙して、純が見てきたのと、同じ眼をしていた。

体温が上昇し、呼吸が荒れ、脳内が低酸素状態になる。

すると、余計なことは考えられない──ただただ、相手に勝ちたいという意志だけが、その瞳に残る。

それが、今の鳳佳の眼だった。

(ふぅ……やっと、上手くいったか──)

心の中で純がそう呟いた瞬間、鳳佳が迫ってきた。

「!」

さっきとは攻め方が違う。

ボールを見るのではなく、純の動きに視点を変えたようだ。

これなら、“全体の動きに対応できるので、距離を離されない”と、彼女は気づいたらしい。

幾度となく、鳳佳の手や身体が、純からボールを奪おうと動く。

「いいね……!」

対する純は、体を捻り、腕を伸ばし、緩急をつけて、それを阻止する。

互いの身体が盛んにぶつかるが、もう鳳佳は気にしてない──というよりは、気にする余裕が失くなったと言った方が正しいだろう。

「うまいうまい!やればできんじゃん!」

思わず純の方が、声をあげた。

それに鼓舞されたか、鳳佳がさらに体を密着させて、彼をマークする。

(くっ…!)

今度は、純の方に遠慮が出てきた。

フリはしていても、現実として純は男で、鳳佳は女の子だ。

微妙な加減を間違えれば、下手をすると怪我させてしまう。

その時──


チッ!!


「おっと!」

純の意識の隙を突いて、鳳佳の指先が初めてボールに触れた。

「おしいね……」

(あぶね……コイツ、見てるところはちゃんと見てんだな……)

少しだけ動揺する純に、間髪をいれず鳳佳が迫る。

次第に、純も息を切らし始めた。

(最近、ちゃんと運動してなかったから、思った以上に体がなまってやがる…ッ)

切り返して回避する。 ──しかし、その動きを、なんと鳳佳が読んでいた。

切り返しの一歩を純が踏み出すと同時に、鳳佳は先回りして、彼の退路に立ち塞がる。

(! マジかよ!)

既に彼女は純の癖を分析しているようだ。

純は驚いて、急いで逆方向へ動きを切り直し、一度彼女から距離を取って、体勢を立て直そうとする。


──その時だった。


ズキンッ!


(痛ッ!)


電撃のような激痛が、一瞬、純の全身に流れた。

(…なん……だ…?)

身体が麻痺して動かない。

その隙を好機チャンスとばかりに、鳳佳が床を蹴って飛び込んでくる。

(やべ──!)

純が目を見開く。

(避けられねぇ──)


ドン!!











 衝撃と共に目の前が暗くなり、自分と鳳佳の体が、床に投げ出されたのがわかった。

夢中になった鳳佳が、勢い余って純に正面からぶつかった瞬間、咄嗟に純は彼女を抱えて、堅く目を閉じていた。

「…」

「……いってェ~……」

ボールが少し遠くで、ひとり跳ねているのが、床を伝わってくる振動で分かる。

しばらく、痛みに顔をしかめていた純だったが、ハッとして目を開いた。

「──鳳佳ッ!!」

彼女の姿を探す──……

「…」

しかし、実際には探すまでもなかった。

彼女を抱えて、そのまま床に転がった純の腕の中に、鳳佳はいたからだ。

「…」

ほんの数センチ先に、鳳佳の顔が見えた。

純は初めて、彼女をこんなにも間近で見た。

いつもは白い肌が、今は上気して、ほんのりと紅い。

汗に濡れた額に、艶やかな髪が張り付いている。

閉じた彼女の目は睫毛の長さまで、はっきりとわかった。

荒い息遣いに震える桜色の唇。

微かに上下する胸。

不意に彼女から、甘い香りがする。


「……!」


途端に、純の顔が紅くなった。

慌てて、頬の紅潮を鎮める。

「だ、大丈夫?」

声を掛けながら、鳳佳を助け起こした。

「ごめんね、痛かったよね?」

純の差し出した手を借りて、鳳佳は立ち上がりながら、首を横に振った。

「あ…」

思わず、純は呟いた。

彼女の浮かべた笑顔は、今までに見たことのない、満面の笑みだったからだ。

それを見て安心し、純が尋ねる。

「どう?楽しかった?」

この質問に、鳳佳はその笑顔のまま、大きく頷いた。



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