変化
今日も朝から毒霧が立ち込めている。
俺はいつものように5時に起きると、サボテンに水をやった。
寝直すにも起きて準備をするにも微妙なら、それ以外のことをすればいい——そう思い至った俺は、最近は出勤前に勉強するようになっていた。机の上に散らばっているのは、全て毒霧や環境の変化についての資料チップだ。俺はその中の1つを取ってプロジェクターに差し込み、部屋中に現れたディスプレイに目を通し始めた。今日取り掛かるのは、環境変化と生物の進化についての論文だ。ある日突然発生した毒霧と突然動き出したサボテンの謎を解くためには、まず俺自身が知識を身につけなければならない。大学では社会系の学部だったが、好きで取っていた理系の講義がまさかこんな形で役に立つなんて——何とか理解できる難しい単語と専門用語の羅列を眺めながら、俺は大学時代の自分にひそかに拍手を送った。
昼休み。俺は同僚と食堂に行った。
「……へえ、お前そんなことしてんの」
毎朝の日課を話すと、あきれたような口調で彼は言った。
「なんだよ、早起きして勉強することのどこがダメなんだ?」
「いや、それはいいんだけど、俺なら仕事に役立ちそうなこと勉強するなーって思ってさ」
そう言って、定食の焼き魚をほぐす。
「毒霧のことを知るっつったって、世界中の研究者が頭抱えてんだろ?今出てる論文や資料だって、はっきりしてないことだらけだ。だったら、もっと自分の生活の役に立つことを勉強した方がいいんじゃないか?」
「おい、毒霧はそこら中に漂って俺たちの呼吸器を狙ってるんだぞ?いくらビジネスのハウツー本読んで昇進したって、油断して死んだら元も子もない」
俺の反論に、同僚は少し困り顔になった。
実際、毒霧は収まるどころか毒性が強まるばかりで、先週にはついに死者が出た。いたって健康な青年が、マスクとボンベの故障に気付かずに毒霧で肺をやられて死んだのだ。この事件は日本どころか世界を震え上がらせた——だが、研究者たちは毒素発生のメカニズムや抑制方法を発見できておらず、マスクとボンベや空気清浄機といった対策に頼るほかない。俺のサボテンのように、植物が動き出す例も多く報告されている。
「……やっぱり、俺たちみんな毒霧で死ぬんじゃないかなあ」
同僚がボソッと言った。
「そうなる前に解決法を見つけるさ」
俺はそう言うと、味噌汁の最後の一口をすすった。
「やけに自信があるみたいだな。お前が見つけるのか?」
「実は最近、それも良いかなって思っててさ」
「はあ!?」
俺の一言に、同僚が大声を上げた。周囲で昼食をとっていた他の社員が何事かとこちらを見る。同僚は声を潜めると、俺の目を見据えた。
「それも良いかなってお前、毒霧の研究なんて大学か専門の施設でしかやってないんだぞ?それに仕事はどうするんだ?」
「一旦辞めて、大学に入りなおそうかと思ってるんだ」
マジかよ、と同僚が呟く。
「でもお前、それめちゃくちゃ大変だぞ」
「分かってるよ。でも、どうしても気になるんだ」
沈黙が流れる。やがて、同僚がため息をついて言った。
「しょうがない、お前がどうしてもやるっていうんなら俺は止めないよ」
「ありがとう」
俺たちは無言で茶を飲み干すと、食器を返して午後の仕事にとりかかった。
これといったこともなく、ただ時間だけが流れていく。
ある日突然、まるで住んでいる世界そのものが変わったかのように、俺の日常は毒霧という謎の現象に支配されてしまった。ある朝起きたら、前の晩布団に入った時には存在していなかったものが存在していて、しかも人々はそれが昔からあるかのように振る舞っている。有毒物質が大気に充満し、植物が動き出す世界——俺の記憶にある世界はこうじゃなかった。少なくとも、あの夢を見た夜までは。
だが、あの夢が何なのかはいまだに分からない。似たような夢も見ていない。
悶々としながら帰宅すると、サボテンが鉢植えごと器用に一回転して迎えてくれた。
「こら、そんなことしたら鉢が割れるぞ」
口ではそう叱りつつも、俺はスマホのカメラを出してもう一回だけ回るように言った。
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