第1話 赤い髪の少女

「───八十年前、世界は災厄に見舞われた」


 教壇に立つ『榊原さかきばら 梨遠りお』の声が教室に響く。

黒く短いボーイッシュな髪に、宝塚で男役をやらせたら人気が出そうな整った目鼻立ち。生徒達とも年齢が近く、歯に衣着せぬ言動から実際に人気もある。

 学院に赴任して二年、教師としても二年目のまだまだ新米と呼べる彼女だけれど、なかなかどうして、実に堂に入った立ち居振る舞いをする。


「神獣クラスの化け物が五体出現し、それぞれ北米、ヨーロッパ、東アジア、南太平洋、そして日本を襲った」


 近代で起こった最大の出来事、───八十年前の災厄。それは異能を持たない者でも知っている事。は。


「そしてこの出来事がにおける最大の転換点となった」


 そう言った出来事を幼い頃から飽きるほど聞かされてきた赤髪の少女の奥底から、まるで深海から浮かび上がってきたでっかい泡のような眠気がわき上がってきた。


「ふぁぁ……」


 直後、ベキッと何かが折れる音がした。


 見ると榊原梨遠がちょうど手にしていた、黒板を指す伸び縮みする棒が真ん中の辺りで折れ曲がっている。


「私の授業で欠伸をするとはいい度胸だな、水薙みずなぎ妹」


 梨遠は赤髪の少女を睨みつける。


「午後の授業なんだから仕方ないじゃないですか梨遠さん」


 水薙妹と呼ばれた赤髪の少女はそれを軽くいなした。


「それと、あたしの名前は浅陽あさひです。『水薙みずなぎ 浅陽あさひ』」


「お前なんぞ水薙妹で十分だ。それに学校では先生と呼べ」


 二人の会話からプライベートでもそれなりの付き合いがあることが垣間見える。


「だがまあたしかに、水薙おまえにとっちゃ今更な授業ことだったな」


 この少女のことをよく知ってる梨遠は、額に青筋を立てたままにっこりと微笑んで、


「だったら答えられるよな?」


 挑発するようにそう言った。


「…………えっと、なんでしたっけ?」


 梨遠は呆れたように右手で額を押さえて溜め息を吐いた。


「八十年前の災厄が異能史の転換点と呼ばれる理由だ」


「あぁ」


 そんなのは簡単だと浅陽は意気揚々と席を立った。


「……あれ?」


「どうした?」


「……なんででしたっけ?」


 梨遠が二度目の大きな溜め息を吐いた。


「ねえ、ミシェル。何でだっけ?」


 後ろの席を振り返る浅陽。だがそこに座っている筈の銀髪のクラスメイトはどこにも居なかった。


「あれ? ミシェル?」


「リンクスなら授業のはじめっからいないが……。まったくお前らはどうしてそう……」


 浅陽は空席を見つめる。彼女が授業をサボるなんてことは、……まあ、ザラにある。猫とまではいかないが、気ままなところがある少女だ。だけど心配する必要は無い。


(あの子、に強いから)


 しかし今日この日に限っては何故か浅陽の胸がざわついた。


「どこいったんだろう……?」


 そう浅陽が呟いたその時、


「赤毛の女ぁ! 出てきやがれっ!!」


 突如、大音声が響く。なになにと窓際の生徒が外を見る。


「お前ら、授業中だぞ」


 そう言いつつも梨遠はバルコニーに出た。そこから見える第一グラウンドの真ん中辺りに、如何にも暴走族といった風な特攻服を着て、前髪を高くこんもりまとめあげている男が校舎の方を睨みつけていた。


「怖じ気づいたか、赤毛の女ぁっ!!」


 再びの大音声に、クラスの目が浅陽に向いた。〝赤毛〟と言われてクラスメイトが浅陽に注目するのは仕方のないことだ。彼女の燃えるような赤い髪は否が応でも、良くも悪くも目立つ。


「ご指名だぞ」


 梨遠がグラウンドを指して、浅陽に向かって言った。


「はぁ……」


 溜め息を吐いて浅陽は立ち上がる。


「まったく」


 窓を開け放ち桟の上に足をかけ、ふわりと宙を舞うようにバルコニーの手すりへ飛び移った。


 ぱっと見肩で揃えた若干癖ッ毛のあるミディアムヘアに見える赤い髪は、後ろから見ると尾長鶏の美しい尾羽おばねのような房が垂れ下がっているのが分かる。


「浅陽ちゃん! ここ二階だよ!? それに……」


 隣の席の女子が心配そうに声をかけた。


「大丈夫だよ」


 浅陽は微笑みで返すと、バルコニーの外側へと躍り出た。そして赤い尾羽が彼女を追いかけるようにすぅっとバルコニーから消えた。



 グラウンドの男は校舎の一角、二階のバルコニーに赤い髪の少女が現れたのを見つけた。


「ふんっ、怖じ気づいてはいなかったようだな」


 そう言ってにやりとした瞬間、その表情は驚きに変わった。少女が何の躊躇いもなく、二階から飛び降りたのだ。


「なっ?!」


 男のいるグラウンドは校舎に隣接しているが、校舎の一階部分から更に一階分ほど下がっている。つまり三階分の高さから躊躇なく飛び降りたことに男はギョッとした。


 そして何故かスカートが捲れることはなく、女子生徒は音も無く着地した。


「……イカレてやがる」


「イカレてるとは失礼しちゃうわね」


「───っ!?」


 気づけば赤髪の少女は、彼の目の前五メートル程の場所に立っていた。


(いつの間に───!?)


 濃い緑色のブレザーに、緑に黒のタータンチェックの入ったスカートは久遠舘学院の女子の制服姿だ。教室から直接出向いてきたので黒いハイソックスの足元は上履きのままだ。


 ブレザーの下に白いパーカーを着込んでいるのは時期柄、防寒であることは分かる。ということは、首元のボタンを外して若草色のリボンタイを緩めているのは室内の気温が高いからだと見るのは早計だろう。なによりパーカーを着込んでいるのと矛盾している。つまりは首元を緩めているのもパーカーも、彼女あさひなりのファッションと見るべきか。


 浅陽も男のことを見る。男は頭丸々一つ分くくらい浅陽よりも背が高い。浅陽が約一六〇センチだから少なくとも一八五センチ以上はある。服の上からは分かりづらいが、割とガッシリとした体格なのが見てとれた。それはどちらかというと鍛えいるというのではなく、ケンカやバイクの扱いで付いたものと思われた。大人と子供とまではいかないものの二人の間には明らかな体格差がある。


「───それであたしに何の用?」


 そして刹那の躊躇もなく浅陽が一歩、左足を踏み出す。晩秋の冷たい空気が震えた。そんな錯覚を覚えさせるような強気な一歩。


 それに男は背筋に冷たいモノが滴ったような悪寒を感じていた。そして直感的なところで、警鐘が鳴っているのも。だが彼はそれを怒りでかき消した。


「タイマンだよ、赤毛の女」


 と浅陽が溜め息を吐くと、男は右手から炎を発した。正確には彼の着けているバングルからだ。比喩ではない。実際に男の右手バングルが燃えている。


 一方浅陽は両手をブレザーのポケットに突っ込んで面倒臭さそうな面持ちだ。


「ウチの後輩が世話になった、その礼だ」


 所謂お礼参りというやつだ。


「後輩?」


「三日前、ウチのチームがテメェに潰された」


「三日前……?」


 はてと浅陽は記憶を巡らせた。


「……ああ。もしかしてあの暴走族? でもあれは───」


「泣く子も黙る【泥美流悪狼デビルアロー】。俺はそこの元総長だ」


「なるほど〜。バイクの爆音が超音波ってわけ?」


「そうそう。あの心地いい甲高い音ハイノートが……って、今はそんな話をしてんじゃねぇっ!!」


「おお、さすが元はお手の物ってとこですか」


「誰がウマイこと言えって言ったよっ!!」


 元総長は燃え上がる拳で浅陽に襲い掛かる。


「あっぶないな~」

 

 セリフとは裏腹に浅陽はそれを難なく避けた。


「まだタイマンを受けるとも言ってないのに」


「ここに来た時点で受けるって言ったようなモンだろうがっ! きっちりオトシマエはつけさせてもらうぜっ!」


 所謂武闘派の不良というヤツなのだが、浅陽は少しも物怖じしていない。


「落とし前も何も、学院生の中にも、五月蝿くて夜眠れないって人が、いたんだから、……っと」


 喧嘩慣れしているのか、元総長は鋭い動きを見せる。しかしそれを、風に揺れる柳の枝の如く、浅陽はひらりひらりと躱す。


「なかなかいい動きするのね~」


「褒めたって許すつもりはねぇぞ!」


いい動きをすると思ったんだけどね。じゃあこうしよっか」


 浅陽はポケットから右手を出してパチンと指を鳴らすと、二人を取り囲むように突風が巻き起こった。


「ぐッ!?」


 元総長は顔を庇うように両腕を交差させた。しかし突風はすぐに止み、元総長は目を開けた


「なんだ、今のは……?」


「はい、注目」


 浅陽は自分の足元を指差す。


「テメェの足元だと?」


 言われた通り元総長が浅陽の足元へ目をやると、その足元には直径一メートル程の円が出来上がっていた。


「テメェまさか……」


 浅陽は円の中心で腕を後ろで組んで、緩めたブラウスの首元からちらっと谷間が見えるくらいに前屈みになるとニッコリ笑う。


「お察しの通りルールは簡単。あたしをこの円から出したらあんたの勝ち。それだけ」


 その仕草は多くの男子生徒を魅了するが、彼には挑発にしか見えなかった。


「あたしに勝てたら落とし前でもなんでもつければいい。勝・て・た・ら・ね」


 やはり挑発していた。


「ナ、ナメんじゃねェッ!!」


 元総長は再び燃える拳で浅陽に襲い掛かる。しかし彼女はまたもそれを難無く受け流す。


「くッ!?」


 何度殴り掛かっても、何度蹴りを入れても、果ては頭突きをお見舞いしようとしたものの、器用に受け流される。それでも諦めずに元総長は浅陽を円から追い出そうと試みる。


「そんなんじゃいつまで経ってもあたしをここから出すことなんて出来ないわよ〜」


 鬼さんこちらとばかりに挑発する浅陽だが、彼女は円の中で一歩たりとも動いていなかった。しかし元総長も伊達にケンカ慣れしているわけではないのか、受け流されているうちに妙案が浮かんだ。


「───ッ!?」


 そして〝それ〟をすぐさま実行に移した。浅陽は彼の空気が変わったのを即座に肌で感じ取った。


 元総長は殴り掛かからずに、体当たりを敢行する構えを見せた。身長一六〇センチある浅陽よりも頭一つ半程大きな体躯を持つ彼の体当たりを受け流すには、彼女の描いた円は狭過ぎる。それを避けるとしたら上に飛ぶしかないと元総長は踏んだのだ。


 彼の目論見通り、ふっと浅陽の姿が消える。元総長は心の中で右腕を空高く突き上げて勝利のポーズを取った。しかし次の瞬間───、


「あっ?」


 天地が逆転した。

 頭の上じめんでは、両手をポケットに突っ込んだままの浅陽が不敵な笑みを浮かべている。そうして漸く男は自分が投げられたことを理解した。


(まさか上に跳んだんじゃなくて、投げるためにしゃがみやがったのか?!)


「がっ?!」


 そしてそのまま受け身を取れずに背中から地面へと激突して勢いよく転がった。数メートル転がった後に勢いが弱まり止まると、元総長はヨロヨロと立ち上がった。


「げほっ、げほっ……! ……な、なんのこれしきッ!!」


 そして地面を蹴って再び少女に迫る。


「タフね~」


 と、そこで授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「ありゃ? もうそんな時間?」


 チャイムに気を取られている間に元総長は浅陽の眼前までやってきていた。


「───っ」


「チャイムなんかに気を取られてんじゃねェ!!」


 元総長の拳はアッパー気味に浅陽の腹部を目掛けて突き上げた。しかしそれは空を切った。浅陽は半身になって躱したその回転運動を利用して、ガラ空きになった元総長の土手っ腹に掌底を叩き込んだ。


「───ッ?!!」


 女子の細腕から繰り出されたとは思えぬ強打に、元総長はさすがにもんどり打って倒れた。


「まだやる?」


 浅陽は息を切らす事も汗を流す事もなく円の中から元総長を見下ろした。一方、元総長は息も絶え絶えで立つ力も無く地面に寝転がっていた。


「まだ準備運動も終わってないよ?」


 つまらなそうに浅陽は言う。


「な、に……?!」


 その一言に元総長は愕然とした。


「なんてね。に本気出すワケにはいかないし」


 浅陽はいたずらっぽくぺろっと舌を出した。


「……テメェ、ただの【念晶者クリスタライズ】じゃねぇな?」


「あれ? あたし【念晶者クリスタライズ】だなんて言ったっけ?」


「【念晶者クリスタライズ】じゃない……? まさかテメェ───」


 世間の爪弾き者で、禄に学校にも行っていなかった彼でも聞いた事があった。


 八十年前の大災厄以降、それまで影に徹していたこの国の守護者達の存在が露わとなり歴史の表舞台に姿を現した。そして同様に異能の発現させる【念晶者クリスタライズ】と区別するようにこう呼ばれるようになった───、


「【顕現者マテリアライズ】───」


 浅陽は正解とばかりにニカッと歯を見せて微笑んだ。




つづく

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