汐見橙子の献身、或いは背徳


「……ここの二階です」

「そ、そうか。よく頑張ったね、遥」


 橙子はやっとの思いで遥を自宅まで送り届けた。

 初めて来る、愛しい遥の家。

 その位置をしっかりと記憶に刻み込みながら、橙子はゆっくりと階段を登った。


 遥に言われて、203号室の扉を開ける。

 あまり中は見ないように。

 そう思っていたのに、思わずチラリと覗いてしまう。


 玄関の先はキッチンになっていた。

 その奥に、リビングへと続いているであろうドアがある。

 キッチンには、特に変わったところはなかった。

 よく整理がされているところは遥らしいな、と橙子は思った。


「はぁ……うぅ……」

「遥……本当に、雪季を呼ばなくて平気なのか……?」


 ドアをくぐるや否や、遥は呻き声を上げながらその場にうずくまってしまった。

 この様子では、とてもひとりでなんとかなるとは思えない。


「……やっぱり、雪季がかわいそうですから」

「そ、そうは言ってもだな……」


 遥はまたよろよろと立ち上がり、ふらついた足取りで奥へと向かって行った。

 しかし、すぐ転びそうになってしまい、橙子は慌てて靴を脱ぎ、遥を支えに近くへ寄り添った。


「は、遥……」

「あはは……ちょっと、きついですね……」


 遥の顔は真っ青だった。

 試しに額に手を当ててみると、今度は明らかに熱い。


「熱がありそうだね……」


 申し訳ない気持ちで、橙子はリビングへのドアを開けた。

 遥に肩を貸しながら、部屋の奥にあるベッドへ誘導する。


 遥は倒れ込むようにベッドに横たわると、身をよじるように毛布を自分の身体にかけた。


 家まで送るだけのつもりだったのに、上がり込んでしまった……。


 橙子はふと冷静になり、鼓動が早くなるのを感じた。

 好きな男が、恋人と住んでいる部屋。

 見てはいけない、と心ではわかっていても、周囲に視線を巡らせてしまう。

 部屋の中に服や下着が干してある、ということはなかったが、たしかに男女が住んでいる痕跡があった。


 薄い水色のパジャマと、紺色のジャージが並んで畳まれている。

 黄色い敷布団が部屋の隅に置かれているにもかかわらず、よく見ればベッドには枕が二つ置かれていた。


 途端、橙子は胸が締め付けられるような思いになった。

 心臓が痛んで、表情が歪んでしまう。


 恋人だから当然だ。

 もちろんそうなのだが、目のあたりにしてしまうとこんなにも苦しいなんて。


 しかし、今は何よりも遥が心配だ。

 橙子は二度深呼吸をしてから、遥の布団を丁寧に整えてやった。


「……それじゃあ、私は行くけれど」

「……」

「……な、なにか、やっておいて欲しいことはあるか? コップに水を入れておいてやろうか? それと、鍵はどうすればいい? 自分で閉められるか?」

「……」


 遥の目はうつろだった。

 眠ってはいないが、返事をしない。

 かなり体調が悪いのかもしれない。


「……橙子さん」

「な、なんだ? ん?」


 遥の顔を覗き込むように、橙子は顔を近づけた。

 その時、橙子はベッドに置いていた自分の手に、なにか熱いものが触れるのを感じた。


 遥が、橙子の手を握っていた。


「は、遥っ? な、なぜ手を……」

「……橙子さん、もうちょっとだけ、いてくれませんか……」

「ええっ!」


 視線だけをこちらに向けて、遥は弱々しい声で言った。

 力なく、それでもぎゅっと橙子の手を握り、遥はすがるような目をしている。


「け、けれど……遥」

「……そうですよね。ごめんなさい、無理言って……」

「む、無理なんて……そんな……。でも、その……やっぱり、よくないんじゃ……」

「……はい……橙子さんに迷惑ですもんね。……心細くて、つい」

「は、遥ぁ……」


 ありとあらゆる感情が、橙子の頭の中で渦巻いていた。

 好きな男に助けを求められて断れるほど、橙子は強くない。

 が、相手には恋人がいる。

 こうして部屋に上がり込んでいるのも後ろめたい気持ちでいっぱいなのに、これ以上の長居はますますマズい。

 しかし……。


「……じゃあ、気をつけて帰ってくださいね。鍵は開けといてください……」

「……う、うん。遥もちゃんと安静に……」


 言いながら、橙子はゆっくりと遥から離れようとした。

 けれど、遥は握った手を離そうとしなかった。

 それどころか、苦悶の表情を浮かべながら、もう片方の手で橙子の服の裾を掴んでくる。


「……ホントに、ダメですか……?」

「……っ!」


 その時、橙子は強く思った。

 やはり自分は、この男のことが今でも、どうしようもなく好きで好きでたまらないのだと。


「……わ、わかったよ。もうちょっと……ちょっとだけなら、いるから」

「……えへへ、ありがとうございます、橙子さん」


 遥はそう言うと、ひどく安心したような顔で目を閉じた。

 

 遥が眠るまで。

 遥が眠ったら、絶対にすぐ帰ろう。


 橙子はそう強く言い聞かせながら、遥の手を強く握りしめた。


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