微睡と弱味 誘惑と秘密
ある日の放課後。
望月絢音は小走りで教室に向かっていた。
担任の森野先生に頼まれた雑務を手伝っていたせいで、すっかり遅くなってしまった。
当然、今日も部活がある。
カバンを持って、早く部室に行かなければならない。
「ちょっとだけ、って言ってたのに。森野先生はホント、いい加減ね」
愚痴をこぼしながら自分の教室に入る。
教室内には誰もおらず、静かで……
「あっ……」
よく見ると、一人の生徒が席に座っていた。
とは言っても、自分の腕を枕にして、スヤスヤと眠っている。
あれは……
「……遥?」
絢音は自分でも理由がわからないまま、サッとドアの陰に隠れた。
恐る恐る再び覗いてみる。
が、やはり遥だ。
ここからでは顔は見えないが、起きる気配がない。
絢音はキョロキョロと辺りを見渡した。
間違いなく、遥以外に人はいない。
誰かが教室に戻ってくる気配もない。
絢音はそろそろとドアの陰から歩み出た。
物音を立てないように、ゆっくりと遥の側まで近づいていく。
自分は、なぜこんなことをしているのだろうか。
遥の寝顔が見える位置まで来ると、そんな疑問も吹き飛んでしまった。
(……やっぱり、寝てる)
周囲に注意を払いながら、静かに隣の席に腰掛ける。
ちょうど、遥の顔が正面から見える形になった。
遥の寝顔はどこまでも無邪気で、無防備だった。
ゆっくりと寝息を立てて、少しだけ口を開けている。
時々目蓋がピクッと動く。
わずかに乱れた髪が、なんとなく色っぽい気がした。
(……かわいい)
再びキョロキョロと辺りを見渡してから、絢音は遥の頬に向けて、徐々に指を伸ばしていった。
しかし、その指が頬に届く寸前、絢音の動きがピタッと止まり、サッと指を引っ込めた。
(いやいや! なにしてんのよ私!? 寝てる隙に触るとか! 変態じゃない!)
ブンブンと首を振り、またジッと寝顔を眺める。
(友達の彼氏なのよ? っていうか、そもそもなんで触りたくなってるのよ……。こんなぽけーっとした寝顔なんて……)
遥は未だに目を覚ます気配はない。
いったい、なぜこんな時間に教室で寝ているのだろう。
それに、雪季は一緒ではないのだろうか。
そうだ。
こんなことをしているところを雪季に見られでもしたら、かなりマズい。
絢音は一つ頷き、完全に手を引っ込めた。
視線を遥からそらして、ぼんやりと黒板を見る。
触らない。
そう決めたのに、なぜか教室を去ることができなかった。
またしても、チラリと遥の顔を盗み見る。
(……かわいい。なんでこんなにかわいく見えるのよ……。普通の顔してるのになぁ……)
(……)
(ちょっとくらいなら、触ってもバレないわよね? 雪季もいないし……)
この教室は廊下の中腹にある。
仮に雪季や他の誰かが戻ってきても、先に足音でそれを知ることができるはずだ。
つまり、絢音はほぼ安全に、遥に触れることができる。
……ゴクリ。
(……って、いや、ダメよ。それに、触ったからってなんだっていうのよ。私、どうかしてるわ……)
(……)
(ちょっとだけ……)
気づけばまた、手を伸ばしていた。
が、直前で指が止まり、再び葛藤が起こる。
(ま、まあ、幼馴染だし? スキンシップの一環というか、友達同士のじゃれ合いというか? だから全然深い意味とかはないし? べつにやましいことするわけじゃないし、ちょっと触るだけだし?)
「……んぅ……ん……」
(えぇぇぇ!? なに今の!? 寝言? え? かわいい……無理……)
改めて周囲を見回して、絢音は今度こそ意を決した。
人差し指でツンっと、遥の頬を突く。
それに反応するように、遥は眉間にシワを寄せてから、小さく寝返りをうった。
たまらない。
絢音はなぜか、こんなことで胸がときめいて仕方がなかった。
(……起きない……よね?)
自分に言い聞かせながら、今度は髪を触る。
指で梳いてみると、見た目よりも柔らかく、艶のある髪質だった。
「ん……ぅん……」
絢音は胸がかき乱されるのを感じた。
だんだんと歯止めが効かなくなってきて、頬を摘んで、鼻先を触って、髪を撫でる。
ふわっと動いた髪の隙間から、遥の匂いが漂ってくるのがわかった。
その匂いに酔ったような気分になりながら、絢音は遥の顔を見つめる。
(遥……)
(……私、いつまで好きなんだろ……遥のこと)
視線が、自然と遥の唇に吸い寄せられる。
一度だけ遥としたキスのことが、嫌でも思い出された。
背徳感と誘惑が、同時に押し寄せる。
(……いや、それはさすがに、犯罪なんじゃ……)
(でももう、一回不意打ちしちゃってるし……)
(……いやいや、バカなの私! ダメに決まってるじゃない! あぶなっ!)
(……でも、たぶん、バレないわよね……?)
抗えない引力で、顔が近づく。
意識がぼおっとする。
自分の心臓の音と、遥の寝息だけが聞こえる。
距離が、ゼロになる。
「いや、それはやめとけ、さすがに」
「えっ!? な、なにっ!?」
突然の声に、絢音は音もなく飛び退いた。
声のした方を見ると、教室の入り口に、都波愛佳が立っていた。
見られた……?
その疑問を一時的に捨て去り、絢音は遥を見た。
よかった、目を覚ましてはいない。
おそるおそる愛佳に向き直ると、愛佳はひどく呆れたような顔をしていた。
「あ、愛佳……なにしてるのよ!」
できるだけ小さい声で叫んだ。
「それはこっちのセリフだろーが」
「うっ……ど、どこから……?」
「ついさっきだよ、安心しろ。まあ、そのセリフは逆に怪しいけどな」
「……雪季には内緒にして」
「どうしよーかな」
「お願い! ホント、一生のお願い!」
「あー、パフェが食いたい」
「わ、わかった! デラックスパフェね!」
「二個食いたい」
「うっ……わかったわよ、二つね」
「あほ、冗談だよ。さっさと行くぞ、部活」
愛佳はそう言って、スタスタと教室を出て行く。
遥の様子を窺いながら、絢音も物音を立てないようにそれに続いた。
「……何しに来たのよ」
「お前が遅いから、顧問が呼んでこいってさ」
「そ、そういうことね……」
「痴女め」
「ちっ……!! 違うもん!! ちょっと髪にゴミがついてたのを取ろうとして……」
「へーぇ」
「……ホントに、言わないでね」
「誰に?」
「雪季よ! お願いね!」
「ふぅん。じゃ、遥に言うかー」
「あっ!? ちょっ! 待って! 誰にも! 誰にも言わないで!」
「わかったわかった、うるせぇな」
煩しそうに手を振る愛佳を追いかけながら、絢音はホッと吐息をついた。
とりあえず、最悪のパターンは免れたらしい。
あとはもう、愛佳が口を割らないことを祈るしかない。
しかし。
(……ちょっとだけ、キスしちゃった……)
絢音の悩ましい日々はまだまだ、終わりそうになかった。
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