耳鳴り坂
今までになく酔っている。
一緒に飲んでいた友人と別れ、終バスに乗って家路に着いた俺は、ただぼんやりとスマホを眺めていた。
それでも、アナウンスにはきちんと耳を傾けていたつもりだ。だというのに、いやにハキハキとした女性の声は聞いたこともない停留所の名前を告げていた。
『耳鳴り坂』とは、なんとも妙な名前だ。
乗り過ごしたのだろう。駅前で吐いて少しはマシになっていたと思うのだが、まだ酔いは少しも覚めていなかったようだ。
曖昧な判断力で、俺はバスを降りた。料金はよく覚えていない。バスカードだったし、液晶の文字はぼやけていて読めなかったし。
あまり長い区間を走るバスでもないので、歩いて帰ることもできるだろうと思っていた。それに明日は授業もないし。
ふらふらと、少し歩く。
流石はド田舎だ。周囲の景色は最寄りの停留所とよく似ている。周りは田んぼだらけで、その間にはぽつぽつと民家が佇んでいた。建物の形もよく似ていて……というより、俺の記憶が正しければ、ほとんど同じだ。用水路の形とか、こじんまりとしたソーラーパネルとか。
とりあえず、バスが進んだのとは反対の方向へと向かった。
時計は家に忘れたし、スマホのバッテリーも切れたので、正確にはわからないが……おおよそ十五分ぐらい歩いたと思う。街灯すらない道を突き進んで辿り着いたのは、最寄りよりもひとつ前の停留所だった。
見間違いを疑ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。ここまで来ると、この時間でもそれなりに車が通る。ヘッドライトの光を頼りに何度見返しても、停留所の名前は変わらなかった。
そうであるなら、先程の停留所はなんだったのだろうか。それなりに歩いたおかげで酔いも覚めてきた俺は、少し考えてから……来た道を引き返すことにした。家に帰るにしろ、謎を解くにしろ、そちらの方が近いからだ。
来た道を再び戻り、月明かりだけを頼りに看板を確認。見慣れた形の看板には、やはり『耳鳴り坂』と記されている。この停留所は間違いなく耳鳴り坂だ。
だというのに、周りの景色は見慣れた近所の停留所そのもの。名前は伏せるが……ここは俺がよく知るあの場所だ。小学生の頃から何度も利用していたので、間違えることはない。
だから俺は、ここから家に帰ることにした。
月の光が薄ぼんやりと照らす田んぼ道を無心で歩く。慣れ親しんだ家路だというのに、いやに薄ら寒い。
少し歩いて、田園地帯を抜けた辺りだっただろうか。
それまで物音ひとつしていなかったところで、背後から急に足音が聞こえ始めた。
二○○メートルほど後ろで、ザッザッザッと、等間隔に。それが俺の歩く速さと一致していることに気づいたのは、一分ぐらい歩き続けてからだ。
足を止めて振り返るも、そこにはなんの姿もない。再び歩き始めると、明らかに俺のものではない足音が、ザッザッザッと聞こえてくる。
流石に怖くなってきた俺は、家まで距離が近いこともあり、走り始めた。
思っていた通り、足音もまた走り始める。付かず離れず、常に一定の距離を保ちながら、足音は俺の後ろを走り続けていた。
やがて、家に辿り着く。
そこで変化が起きた。
それまで俺と同じ速さで進んでいた足音が、俺が庭に足を踏み入れた途端に急に加速し始めたのだ。
俺は息を切らして全力疾走し、なんとか追いつかれる前に鍵を開けて家に飛び込む。するとどうだ、あれだけしつこく追ってきていた足音が、ぴたりと鳴り止んだではないか。
酔いなどとうに覚めていた。
ほっと胸をなでおろした俺は、そのまま家族に帰宅した旨を告げ、入浴して眠りについた。
翌日。どうしても気になった俺は、再び最寄りの停留所に足を運んだ。
そこにあったのは、耳鳴り坂などではない。慣れ親しんだいつもの文字列。なんとか日常に戻ってきたことに安堵し、俺は深い溜め息をついた。
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