てのひらの冬

天乃 彗

震え

──ああ、今日もまた殺してしまった。


 男は心の中で呟く。人殺しが正当化されるこの場所で、男は一人震えていた。


──終わるあてのないこの戦争に、何の意味があるのだ。


 そんなことを口に出したらどうなるかは安易に想像できる。人々は必死に、自分が存在する意味を探していた。


殺すためか。

殺されるのを待つためか。


 明るい未来はすでにどこかに置き去りにされた。無論、男の未来も。返り血で汚れた軍服を見下ろしながら、男は思う。


──こんな姿、あいつが見たら悲しむだろうな。


 男は敵に見つからないように家の残骸に隠れる。そして、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。長い髪の女性がカメラに向かって笑っている。男は愛しそうにその写真を眺め──軽くキスをした。


──一人で泣いていないだろうか? 


 別れは一瞬で、会えない時間は永遠に近かった。



 * * *



「落ち着いて聞いてくれないか?」


 男の言葉に不思議そうな顔をしながらも、女は男の隣に座った。


「行くことになったんだ」

「うん、どこに?」

「──……戦争に」


 男の唐突な言葉に、女は戸惑う。まるで時が止まったかのようで。だけど時計の音は響いていて。嘘だと思いたいが、男の真剣な表情がそれを許さなかった。


「……行ってらっしゃい」


 女は笑った。

 男にも分かるほどの作り笑いで、笑った。


 気がつくと男は──何も言わず女を抱きしめていた。小さく震えている彼女の身体を、包み込むように。


──すまない。


 心の中で男は呟いた。声に出さない謝罪の言葉は、彼女にも聞こえていると信じて。



 * * *



 出発の日。列車のホームで、二人はしばらく見つめ合った。こんな時に交わす会話など思いつかず、ぐ、と息を飲むと、彼女の方から口を開いた。


「お願いがあるの」

「ああ……」

「約束……して。私、待ってるから。絶対に帰ってきて」

「──分かった。約束するよ」


 男は無理やり笑顔を作った。嘘をついた。

 戦場に行くことの意味、その先にあるのは──死だけ。男に触れる女の手は驚くほどに冷たく、震えていた。

 ベルが鳴り響く。別れの時間は、こくいっこくと迫っていた。


──もう行かなければ。


「じゃあ……行ってくる」

「うん……」


 小さく手を振って列車に乗り込んだ。窓の外に女の姿が見える。男はそれを見なかった。否──見れなかった。

 涙をこらえて無理に笑う、彼女のことを。


「──っ! くそっ……!」


 男は拳を固く握った。爪がめり込むが、気にならない。素直で、寂しがりな愛しい人。きっと、今も泣いているんだろう。



 * * *



 自分と同じ瞳をした人を、彼は何人も手にかけた。手が震え出す。自分がした行為が、震えとなって返ってくる。


 止まらない。


──ごめんな。


 男はひたすらに。


──殺してしまってごめんな……。


 ひたすらに。


──愛する人を奪ってごめんな……。


 ひたすらに。


──泣かせてごめんな。


 ひたすらに、ただひたすらに謝った。


 人殺しの男を見て、彼女は笑ってくれるだろうか。きっと困ったような顔をするのだろう。悲しむ彼女を見たくない。それに、人を殺めて、愛する者を奪っておいて、自分が彼女に会う資格など無いのだ。

 震える手で、自分の腰にある銃を持った。こめかみに銃口を当てて、思う。


──約束破っちゃうな……ごめん……。


 目を閉じても、思い浮かぶのは愛しい笑顔。


「愛しているよ」


 一筋の涙が頬を伝い、銃声が響いた。そこは戦場で、そんなちっぽけな銃声は誰にも届かなかった。



 * * *



 女の家に手紙が届いた。


『戦死』


 その二文字は、一瞬にして彼女の思考を停止させた。


「……っ、約束っ……! 約束、したじゃないっ……!どうして……どうしてぇっ!!」


 泣きながら封筒を強く握ると、違和感があった。中を見ると、遺品と思しきものが入っている。


──ぼろぼろの写真だ。


「これ……私……!」


 いつ撮ったのかさえ思い出せないほど昔の写真。大事に、向こうに持っていくなんて。


「……っう、うぅっ……」


 嗚咽が漏れた。彼の不器用さが、愛しかった。ふと裏を見ると、小さく文字が書いてある。擦れて読めない部分もあったが、何とか文として読めた。そこには──


『たった一人の最愛の人』


ただ、それだけ書いてあった。

 口べただった男の字。口で言ってくれなきゃ、わからないじゃない。もう二度と言ってもらえない愛の言葉を眺めて、女は、還ってこない愛しい人を思ってただ泣いた。震える心を慰めてくれるのは、いつか見た優しい記憶だけ。

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