優等生とお調子者

 後輩は俺のことを先輩と呼ぶが、別に会社にいる年上の社員全員を先輩と呼んでいるわけではない。むしろ俺のことしか呼ばない。なぜかと言うと、俺があいつの指導担当だったからである。


 うちの会社では、新入社員には一名ずつ先輩社員が指導員としてつく決まりがある。そして俺は、たまたまあいつの担当だったのだ。新入社員にとって、会社の人間は全て初対面だ。その上、全員が先輩にあたるので名前を間違えるなんて失礼なことは許されない。なのであいつは、一番接する機会の多い指導員である俺だけは絶対に間違えないように『先輩』と呼び分けていたのだ。


 なるほど『先輩』。実に便利な名詞である。相手の氏名を覚えていなくても、問題なく使えるあたりが特に。


 その後、次の新入社員も入って来て既に部内全員の名前を覚えるようになった今でも、あいつはいまだに俺のことを先輩と呼んでいる。


 そんなわけもあって、ご近所だということが発覚し、一緒にうちで夕飯を食べたりする前から後輩とはそこそこ仲が良かった。会社でも比較的喋る方だったし、時間があえばたまに一緒に昼飯を食べることもあった。


 その後輩が。

 最近、なぜか一向に話しかけてこない。


 正確には、先日スーパーで偶然出会い、そのままうちで兄妹仲良く開化丼を食べに来たとき以来、ずっと話しかけてこない。その週末におでんを届けに行ったが、出てきたのは百瀬だけだった。おでん自体は喜んでいたが。


「…………………」


 どうやら話しかけてこないのは俺に対してだけらしく、他の人間とはごく普通に談笑している。指導員をしていたとはいえ、今は所属部署も違うので、特に話しかける用があるわけではないのだが。それでも以前は、フロア内ですれ違う時やコピー機の前で会った時はにこやかに挨拶をしてきたもんだが、最近では全くそんなこともない。


 別にあいつに話しかけられないからといって、困るわけではないのだが。原因が分からないのは、いささか気分が悪い。お裾分けしたおでんが不味かったというのはありえないとして、可能性としては先日、夕飯を食べた時だろうか。


 ……なんかあったっけ?


 あいにくと、百瀬が約束もしていないのにエプロン装備でやってきて、料理を手伝ってもらったことぐらいしか覚えていない。


 ま、どうでもいいか。


 気になるが、わざわざ確かめに行く気にもなれない。そんなことより目の前の仕事に集中だ。できればこの資料作りは午前中のうちに終わらせたい。


 この間、課長が有給をとったため急遽こちらに回ってきた案件だ。本来ならば、まだ入社して数年しか経っていない俺のような若造が関わる企画ではないのだが、なぜか課長不在の代わりにと部長から直々に命令を受けてしまった。


 一応、チェックは部長がしてくれる予定だが、なるべく早めに終わらせて自分でも見直しをしたい。カタカタとしばし端末を無心で叩いていると、課長から呼び出しを食らった。


「おい、立花くん。ちょっと」

「はい」


 踏ん反り返ったまま動く気配のない課長に、手招きだけで『来い』と言われて席を立つ。課長は自分の横にあるパイプ椅子を指差し、無言で座れと促した。これは長くなりそうだぞ、と気配だけで嫌な予感がビシバシと伝えてくる。


 神妙に座る俺の前に、課長はばさりと乱暴に資料を叩きつけた。先日の会議で配られる筈だったものだ。俺が任せられることになった案件。


「あのな、先日の会議の案件。S社の競合企画のやつ。俺が病気で仕方なく休暇とってる間に、君に決まったって部長から聞いたんだわ。君さ、なんでそういうのをちゃんと俺に報告しにこないの?」


 なんでと言われても。部長が直々に課長に伝えておくからと言ってたからだが。一応、決定事項は部署内全員に共有メールで回っているし、部長から課長に伝えておくと言われた以上、そのさらに下っ端である俺にできることなど何もない。


 そう告げると、課長は明らかにイライラとした表情になった。眉間にしわが寄る。


「そうじゃなくてさぁ。情報共有が出来てたとしても、人としての仁義ってもんがあるでしょうよ。君だって知ってるよね?本来、その仕事は俺が担当するはずだったってこと。大体さぁ、S社って言ったらうちの売上でかなりの割合を占める大手様だよ?あそこの担当さんだって、俺のほうがずっと付き合い長いし気心だって知れてるの。それを、たまたま病欠したってだけで、君に任せるなんてちょっと有り得ないと思わない?」


「はぁ……」


 その大手様の競合担当を決める会議の日に、運悪く病欠になったのは気の毒だとは思うが、そんなことを俺に言われても仕方ない。


「立花くんが『どうやって』部長から仕事をもらったのかは知らないけどさぁ。君にあの案件はまだ早すぎるよ。出世意欲に燃えるワカモノは嫌いじゃないけど、ちょっと急ぎすぎだろ。な、今からでも遅くないから、俺にその企画返しなさいよ。部長にはまだ自分の手には余るから、やっぱり課長にお任せしたいですって、ちゃんと君から伝えて」


「いえ、別に心配していただかなくても、さほど手に余るとは思っていませんが」


 確かに大きな案件だが、手に負えないとまでは思っていない。部長のサポートも受けられるし、内心では面白そうだとも思っている。何より、S社の担当さん──一昨年に育休から復活した方──とは、俺もそれなりに親しくさせていただいてるのだ。仕事の雑談ついでにレンチンだけで作る簡易レシピを教えたりしていたら仲良くなった。本当にお手上げならばともかく、まだ始まってもいないこの段階で返せと言われても。


「ご心配はありがたいですが、私を指名した部長から力不足と言われたならばともかく、現時点で返せと言われても、その権限は私にはないので困ります。もちろん、手に余りそうならそう感じた時点ですぐご相談致しますが、今のところはまだ問題ないので大丈夫です」


 誤解のないようキッパリ告げると、なぜか急に課長の表情が険しくなった。鼻のあたりにしわが寄り、こちらを睨めつける眼差しには明らかに敵意がこもっている。あ、やべえこれはどっかで地雷踏んだのかな、と身構えた瞬間。


「かっちょ〜ぉ!助けてくださーい!!ちょっと分からないところがあってぇ〜」


 いつもの能天気な声をあげながら、なぜかモバイル端末を持った後輩が飛び込んできた。


 勢いを挫かれた課長がその矛先を後輩に向ける。


「足立?なんだぁお前。もう移動になったんだから、用があるなら自分ところの上司に聞きゃいいじゃねえか」


「そんな冷たいこと言わないで下さいよー。たとえ子供が独り立ちしても、我が子はずっと我が子って言うじゃないですか。俺の初所属はここだったんだから、この部署はもういつまでもずっと俺の実家扱いなんです。だから課長も俺の初代上司として、いつまでも末永く俺のことをちゃんと可愛がってくれないと」


 きりっとした顔で馬鹿な台詞を吐く後輩に、課長が呆れたようにため息をついた。


「相変わらずお前は調子がいいっつーか、仕方のない奴だなぁ……それで、何が分からないって?」


 呆れてはいるが、そう尋ねる課長に先ほどまでの不穏な気配はない。手のかかる駄目な若造に縋られてやれやれとは言っているが、怒っているわけではそうだ。後輩はべそべそしながら端末のモニターを課長に向ける。


「ここなんですよー。なんか、急に午後一までにこの表の集計出しておけって言われちゃって。俺、こういうの苦手なんで焦ってたんです。課長ならなんとかならないかなーって」


「お前、こんなのも出来ないのか?ったく、若いのに本当に駄目なやつだな。いいか、こんなのはちょっと関数を使えばすーぐじゃねぇか」


「うっわ、本当だすっげ!いやー、俺なんて関数はオートフィルタとかが限界ですよ。課長が教えてくれてマジで本当に助かりました!」


 ニコニコと本当に嬉しそうな顔でお礼を言う後輩に、課長が満更でもなさそうな顔をする。目の前で繰り広げられる会話に、俺は座っているにも関わらず椅子からずっこけそうになった。


 後輩が関数に弱い?馬鹿な、奴はゴリゴリのガチ勢だ。俺が指導員を担当していた当時から、手作業入力の業務を見つけては『馬鹿じゃねーの馬鹿じゃねーの!?こんな無駄な作業をまだ人間がやってんのかよ!?』とキレちらかし、自分でコードを直接叩いてはマクロを組んで業務時間を短縮していた。その後輩が、簡単な表計算程度に手こずる筈がない。


 しかし課長はそのことを知らないのか(そういえばこの人は後輩がうちの課所属だった頃も、育成を俺任せにして殆ど指導には関わってこなかった)ふふん、とそんな後輩相手に踏ん反り返った。


「全く足立よぉ、お前はまだ若いんだから、パソコン関係で俺みたいなおじさんにいつまでも頼ってんじゃないよ。本当だったら、若いお前の方がこういうのは得意じゃなきゃ駄目なんだぞ?俺だって別に得意ってわけじゃないけど、仕事に必要だからパソコン教室とかに通って勉強してるのよ。お前もすぐ人に頼らず、そういう努力をしなさい。まだ若いんだから」


「はーい。これからは課長を見習って、俺もちゃんと勉強しまーす……って、あれ?その資料って、前の中止になったうちとの合同会議のやつっすよね先輩」


 なんでそんなもん今更持ってるんですか?と尋ねる後輩に、課長が慌てて「あ、あー……」となにやら気まずそうにする。が、そんな課長の焦りなど気づく様子もなく、後輩はひどく同情的な顔で俺を見た。


「ほんっとこの時はついてなかったですよねー、先輩。いや、ついてないって言っちゃ失礼か。大手様の企画だし。でもなー、たまたま課長が病欠だったからって、まだ入社して数年の先輩にこんな大きい案件任せるなんて、部長もアレっすよねー」


 心から気の毒だと言わんばかりの眼差しで俺を見つめる後輩に、課長が得たりとばかりに頷く。


「そ……そう、そうなんだよ!俺は立花君が気の毒でさぁ……」

「本当っすよ。部長も、いくら課長を頼りにしてるからって『立花もいつまでも上司に甘えてないで、そろそろ独り立ちするべきだろう』っていきなり先輩を指名しちゃうんだもんなー。そりゃ確かに、部長としては大手様とはいえ何度か経験して安定した案件は下っ端の先輩に任せて、もっと重要な案件で課長の力を借りたいってことなんでしょうけど」


 先輩としては困っちゃいますよねぇ、という後輩の言葉に、課長の機嫌は見るからによくなった。


「そう、そうか……部長がそんなつもりで……」

「そーなんですよー。だから課長、できるだけ先輩を助けてあげてくださいね!そりゃ、課長にとってはお馴染みの慣れた案件でしょうけど、先輩にとっては初めての仕事だし、部長に直で報告って結構なプレッシャーじゃないですか」


 懇願する後輩に、課長はもっともらしい顔で「いやぁ」と首を振った。


「部長が任せた以上、俺が勝手にでしゃばるわけにもいかないだろうよ。立花君もな、まあ確かに君にはちょいと荷が重いかもしれんが、これも勉強と思って一人で頑張ってみなさい」

「はぁ……」


 もとより、全く課長に頼るつもりはなかったので何の問題もないが。結局、俺がなんでここに呼ばれたのかがよく分からないが。曖昧に頷いていると、後輩がポンと肩を叩いた。


「あ、課長。ついでにこの人ちょっと借りてっていいですか。そろそろ昼休みだし、たまにゃ可愛い後輩と一緒に飯食ってくださいよ先輩」

「いいけど足立。お前、さっき言ってた資料はいいのか?」

「だーかーら、先輩に昼に残りを手伝って貰うんです。課長のおかげであとちょっとで仕上がりそうだし、この上、休み時間までお邪魔するのは悪いじゃないですか」


 なんでこの人、貰っていきますねー、と。


 ニッコリとそつなく微笑む後輩に肩をガッシリと掴まれそして、俺は抵抗する間もなく上司公認の元、ドナドナと誘拐されていった。

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