第90話 告白
悠然とベースランを終えると、戸高はホームベースでもみくちゃになった。
チームメイトたちの帽子や給水用のペットボトルから天高く水が放たれる中、手荒い歓迎を受ける。
そして戸高はひとしきり先輩たちと喜びを分かち合うと、まっすぐに輪の外にいる楓の元へ足を向けた。
「立花が投げる試合は、俺が消化試合にさせない。」
決意に満ちたような視線を楓に向ける。
「うん。」
楓はそれだけ返すと、左手を顔の高さまで上げて見せた。
その指先はやはり白く染まったままだ。
戸高は小さく頷いてから、ハイタッチで応じる。
本来なら、投手が故障した手のひらを差し出したとて、ハイタッチするなどあってはならない。
だが、そうせずにはいられなかった。
楓にとっても、戸高にだからそうできた。
戸高も、相手が楓だったから応じることができた。
楓の指先に触れないように手のひらでハイタッチした部分を見つめながら、戸高は勝利をぐっとかみしめていた。
◆試合経過(湘南−福岡・日本シリーズ5回戦)
福岡 000 005 000 =5
湘南 002 200 002x=6
勝利投手:伊藤
敗戦投手:カニングハム
ドルフィンズはシーズンを通して初めての敗戦をカニングハムにつけ、伊藤がプロ初の日本シリーズ勝利投手に輝いた。
9回裏の3分の1イニングを投げた楓には何の星もつかない。
だが、楓がとった1アウトがあったから、この勝利がある。
篠田を打ち取ったのは他ならぬ立花楓だった。
それはドルフィンズにも、ファルコンズにも、そして両チームのファンにとっても明らかな事実だった。
◆◇◆
5戦目を勝利で飾りなんとか2勝3敗に持ち込んだドルフィンズだったが、次の試合で5対0とあっけなく完封負けを喫し、念願だった日本一はお預けとなった。
前日に投げたためマウンドに上がることもできず、楓の初シーズンもベンチで幕を閉じた。
「――ありがとう。」
自分たちのホームグラウンドで何度も宙に舞うファルコンズの監督を見る戸高の横顔を見ながら、楓はそっとつぶやいた。
「え? なんだって? 痛って――」
声のする方に向き直ろうとして、戸高は口元を押さえる。
「いや、血出てるから! ってか、唇噛みすぎて出血って、どんだけ悔しかったのよ?!」
慌てて楓が口元にタオルを差し出す。
「でもまあ、そうだよね――私も悔しい。」
タオルについた血を見て苦々しい表情をする戸高の横顔に向けて、楓は言った。
「そうだな。だけど、なんでだろうな。なんだか清々しくもある。」
「分かるよ。なんでだろうね。こんなにコテンパンに負けたのに。」
苦笑した楓と目が合うと、戸高も笑って見せた。
「それでな、立花。」
ふと真面目な表情に戻って楓の方に近づくと、戸高は続けた。
「ちょっと時間あるか? 大事な話がある。」
◆◇◆
時刻は午後11時に迫っていた。
湘南スタジアムの証明はほとんど落ち、周囲の公園はまばらな街灯に照らされている。
あたりにはドルフィンズファンが日本シリーズ敗戦の腹いせとばかりに残していったゴミが散らばっていた。
楓と戸高はチームバスを見送り、スタッフも帰宅した後、2人だけで公園を散策している。
「戸高くんってさ、ほんと毎回突然だよね。」
最初に口を開いたのは楓だった。
「もうちょっとデリカシーとか、持った方がいいよ? これから正捕手になるんだから。」
戸高を褒めるときはいつもこうだ。
楓なりに、日本シリーズの健闘を讃えたつもりだった。
「すまん――」
だが戸高はぐうの音も出ないといった様子で、うつむいたまま押し黙ってしまった。
いつもなら言い返してくるのに、どうも今日はおとなしい。
「ごめん――私のほうこそ。」
楓もその様子にあっけにとられて、つい押し黙ってしまう。
しばし沈黙が流れたあと、再び口を開いたのは楓だ。
「でさ、何? 話って。」
二人の雰囲気が重くなったとき、リードするのは楓だった。
マウンドを降りるとリードする立場はいつも逆転していた。
「立花、俺な・・・・・・。」
そう言うと、再び戸高は黙りこくってしまう。
楓の中にふつふつと苛立ちが沸き上がる。
こういうときはいつもそうだ。
普段野球で私に指示する時はあんなにまくし立てるくせに。
今回だってそうだ。
私の最後までマウンドに立てないっていう悩みに勝手に気づいて、勝手に話を進めて――思わず私まで「最後まで投げたい」って監督の指示に逆らっちゃったじゃない。
あれで二人まとめて懲罰交代とかになったって知らないよ!
今日だって、自分で「話がある」って言っておいて黙ったままで――
「だいたいね! さっきから言いたいことがあるなら――」
思わず楓の本心が口をついて出かけたそのときだった。
「ずっと、俺に付き合ってほしいんだ!」
鬼気迫る様子で、顔を真っ赤にした戸高が言い放った言葉に、思わず楓は固まった。
とっさの言葉に楓も焦ったのか、先ほどよりも早口で言葉を返す。
「ちょ、ちょっと何言ってんの?! 話ってそれ? いや、別にそういうことを言うなっていう意味じゃなくて、えーっと・・・・・・なんていうかな、ものには順序って言うものがあってさ――」
楓は狼狽したまま返しながら、頬を紅潮させている。
女子選手である楓は、男子に交じって野球をしていた経験上、男子選手から告白されることは数多くあった。
だが、楓にとってチームメイトの男子は戦友であり、異性として意識したことはなかった。恋愛対象としてみるなどもってのほかだ。
それもあって、楓はこれまでチームメイトからの告白をその場で意に介さず断っていた。
だが、戸高の突然の言葉には、これまでのような返し方をしてはいけない気がした。
真剣に自分の野球に向き合ってきた戸高の気持ちには、真剣に向き合う必要がある。
それと、病院の待合室でとったとっさの行動を思い出し、自分にもその責任の一端があると思い直すと、楓はさらに頬を紅潮させた。
それからふーっと大きく息を吐くと、
「じゃあ、ちゃんと聞く。それどういう意味?」
顔を赤らめたまま戸高に尋ねた。
「俺は――」
戸高もぽつりぽつりと、ゆっくりとした言葉を紡いで答える。
「高校生の時に立花の球を見て、ずっと、一緒に野球がしたいと思ってた。
あのとき手も足も出なかったシンカーを、もっと全国の、いや世界中のバッターに通用するボールにしてやりたかった。
それからたまたまドラフトに一緒にかかって、バッテリーが組めて。
こうやって一緒のシーズンを過ごすことができた。」
その言葉を聞きながら、楓の脳裏にも今シーズンの思い出がよみがえる。
充実し、振り返れば楽しかったシーズンの記憶に、楓も思わず口元が緩んだ。
戸高は楓の方を見ぬまま、彼女の足下を見ながら言葉を続ける。
「初めのうちは、立花は俺がレギュラーになるための、ただの相棒だったのかもしれない。
でも、いつのまにか・・・・・・いつのまにか、俺の仕事は『立花楓のおかげで勝てた試合』を、一つでも多く作ることになってたんだ。
もう俺にとって、立花はただのピッチャーじゃないんだ。
キャッチャーとして、誰よりも輝かせなきゃならない存在だって思ってる。」
そこまで言うと、戸高は小さく息を吸ってから次の言葉を続けた。
「だから――」
次に一番大事な言葉があることを察した楓は、思わず固唾をのんだ。
まだ答えは決められていない。
戸高はもう一度大きく息を吸うと、さっきより一層大きな声で言った。
「立花! どこにも、移籍しないでくれ!」
「へっ――――?」
思わず鼻から抜けた声を出した楓とは対照的に、戸高は言い切ったといわんばかりの、やりきった表情だった。
「えっと、戸高さん? 一応聞くけど・・・・・・どういう意味?」
「いや、だから、俺はずっと立花のボールを受けていたいって――。」
「いやいやいやいや! 逆になんで溜めた? そしてなんでそんなに緊張した?!」
「だって! プロ野球選手にとって、どのチームに所属するかってのはめちゃくちゃ大事だろ! それを勝手に決めるなんて身勝手な要望、なかなかできるもんじゃない!」
「一応聞きますけど、『ずっと付き合ってくれ』っていうのは・・・・・・。」
「だから、『俺とずっとバッテリーを組んでくれ』っていう、超身勝手なお願いだよ!」
そこまで聞くと楓はしばし頭を抱えたままうずくまった。
「どうした? 頭、痛いのか?!」
相変わらず状況が読めていない戸高は、あたふたと楓の様子をうかがっている。
(なんだよこの野球サイコパス! 乙女みたいに悩んだ私が馬鹿みたいじゃん――!!)
楓はうずくまったまま紅潮した顔がさらに熱くなるのが分かった。
だがその理由は恥じらいではなく、戸高への怒りとも呆れともいえぬ感情だった。
そして動揺した自分を嘲るように「ふふっ」と笑うと、両膝をぱんと軽く叩いて軽快に立ち上がる。
戸高のほうに向き直ると、
「いいよ、どこまでも付き合ったげる。」
決意に満ちたまなざしを戸高に向けながら言った。
それから少しいたずらっぽく笑うと、人差し指を真っ直ぐ指していった。
「先にFA権もらっても出て行くなよ、戸高一平!」
戸高も微笑んで答える。
「ああ、立花こそ、トレードで出されるなよ。」
◆◇◆
史上最弱といわれたドルフィンズのシーズンは、こうして幕を閉じた。
日本一を逃したものの、この出来事は「第一次ホワイトラン・マジック」として、後世に語り継がれることになる。
そしてこのシーズンは同時に、プロ野球界にとっても大きな変化をもたらすシーズンとなったことを、まだ選手たちは知らなかった。
変化の意味は、翌年のドラフト会議ですぐに明らかになる。
《第3回選択希望選手、千葉――渡辺 遙、投手。北山女子大学。》
《第4回選択希望選手、東京――錦織 智恵、投手。東洋女子体育短期大学》
各球団がこぞって女子選手を戦力として指名したのだ。
まだ投手ばかりの指名だが、お飾りの最終指名ではなく、戦力として計算するための指名だった。
楓の活躍は、日本プロ野球界に女子選手の戦力化という一席を投じたのだった。
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