第89話 心の後押し

9回の表、楓はホワイトラン監督の宣言通り、篠田へのワンポントで交代となった。

その後マウンドに上がった伊藤は、強気のリードを取り戻した戸高の活躍もあって、後続をぴしゃりと抑えた。


 そして迎えた9回の裏、1点のビハインドを返せなければドルフィンズの日本シリーズは終わる。


◆試合経過(湘南−福岡・日本シリーズ5回戦)

福岡 000 005 000=5

湘南 002 200 00 =4

湘南の継投:ダグラス(4回)、バワード(1回)、大島(2/3回)、神田(1+3/1回)、叶(1回)、立花(1/3回)、伊藤(2/3回)-谷口、戸高


 マウンド上にはファルコンズ不動のクローザー・カニングハム。

 5番のフェルナンデスがなんとか粘って四球を選んだものの、続くボルトン、高橋があっさりと倒れ、一塁上の代走・宮川は釘付けになってしまう。

 カニングハムはこれまでも、150km/hをコンスタントに超える速球と、独特の変化をするチェンジアップで幾多の試合を締めくくってきた。

彼がとらんとする3つのアウトは、日本一をかけた試合であっても決して異質なものではなかった。


諦めムードが漂うホームチームのスタンドから、かすかなため息が漏れる。

やはり奇跡の下剋上を成し遂げた「逆転のドルフィンズ」であっても、元々は史上最弱球団と揶揄されたチーム。絶対王者・ファルコンズには到底敵わないというムードを、湘南スタジアムをいつの間にか薄く覆った雲が物語っているようだった。


幾ばくか応援の声が静かになってしまった分、球場のアナウンスがよく響いた。


《8番、キャッチャー、戸高。》


 戸高は自分の名前がコールされるのを待ってから、ゆっくりと打席に入った。

 それは、まるで今シーズン最後の打席とも思えるかのようだった。


 いつものようにバットの先でホームベースを触ってストライクゾーンの感触を確かめると、そのままゆらゆらと体の前で揺らしてから肩越しに構える。


 そして何かを決意したような強い目つきでカニングハムを睨み付けると、再び両手でバットを強く握り混んだ。


 勝利ムードを壊さぬよう、カニングハムはすぐにサインにうなずいた。

 そしてノーワインドアップのフォームから、元メジャーリーガー特有の変則的かつ大きなフォームで、第一球を投じる。


154km/hの直球が心地よいミット音を立ててインコースに吸い込まれる。

 これでカウントは0-1だ。


 戸高はまったく身動きせず、バットを構えたまま次の球を待っている。


 カニングハムはすかさず次のサインを決め、軽快なリズムで第二球を投じた。

 今度は146km/hのカットボールが外角ギリギリに決まって0-2。


 さらに大きくなるレフトスタンドからの完成に、戸高はうざったそうな表情を浮かべて一度打席を外した。

 目をつむって天を仰ぐと、ファルコンズファンの「あと一人」コールがひときわ大きくなった気がした。


 ベンチに戻った楓は、固唾をのんでその姿を見守ることしかできない。


 9回表の攻撃を終えた後、いつものように笑い合えたかに見えた戸高は、またベンチの端に座って、楓のことなど意に介さなくなってしまっていた。

 その真意が楓にはわからなかったが、試合中に個人的な会話などできるはずもなかった。


 今はただ、ドルフィンズの逆転を信じて見守るだけだ。


 戸高が再び打席に戻って遊び球となるボールを見逃したところで、楓は体中に電流が走るかのような感覚を得た。


 カウントが1-2となったところで、戸高と目があった気がしたのだ。


 いや、はっきりと戸高はこちらを見ていた。

 そして一度、かすかにうなずいて見せた。


 戸高は、次の一球にかけるとはじめから決めていたのだ。


(分かっていても、やっぱり緊張するもんだな・・・・・・。)


 打席の土をもう一度丁寧にならすと、戸高は心の声が外に漏れないよう、左手を軽く握って口に押し当てた。

 バッティンググローブ特有の化学繊維の匂いが鼻につく。


 クローザーを打ち崩すための分析や研究は、各球団が血眼になってやっていることだ。

 しかし、それでも打ち崩せないのがクローザーの神髄というものだった。


 そして、絶対王者・ファルコンズのクローザーともなると、難攻不落という表現でもなお生ぬるいほどである。


 データで分析されてもカニングハムが打たれない理由、それは対戦してみないと分からなかった。

 だが、不振で谷口に先発捕手の座を譲ったこの2試合は、戸高にとって何よりもよい研究の機会になっていた。


(少ない球種と、少し早いだけの直球――それでも打たれない理由がやっと分かったよ。)


 思わずニヤつく口元を隠そうと、再び口元に拳を当てる。


 一般的なデータメトリクスでは読み取れない、裏にある法則を見いだすことは、野球サイコパスと楓に言わしめた戸高にとっては格好の研究材料だ。


(打席とベンチ両方から見なきゃ分からなかったよ。こんなに微妙に動くボールはさすがに初めてだ。左右に沈んでどこに動くか分かったもんじゃない。だけどな――)


 カニングハムがモーションに入ると、戸高は珍しく足を高々と上げたフォームに入る。


(あんたが最後の打者に投げるストライク、それは――)


 放たれたボールが手元で微妙にブレ始めるのがしっかりと分かった。


(必ずここに落ちてくる!)


 口の中でマウスピースが潰れるかのような強い力で踏ん張りながら、戸高は思いきり膝元のボールをすくい上げた。


 ボールは高々と宙に上がり、カクテル光線に照らされる。


 ライトスタンドのファンは大飛球に歓声を上げたが、なかなか落ちてこないボールにざわめき始めていた。


 しかし、次の瞬間、大きなため息が上がった。


 右翼手が大きく手を上げている。


 ベンチのホワイトラン監督は、珍しく「これまでか」といった様子で目の前の柵を拳で叩いた。

 カニングハムが勝利を確信して、人差し指を天高く突き上げる。


 そして右翼手が定位置から下がりながら、ボールが落ちてくるのを待つ。


 だが、ドルフィンズナインは諦めていなかった。


「いけ!」


 真っ先に叫んだのは新川だった。

 新川にとっても、キャプテンとしてこんなしびれる試合を経験できるなどとは思っていなかった。


「まだだ! 伸びろ!」


 谷口もベンチの後列から身を乗り出して叫ぶ。

 年齢的にもこれが最後だろう。悔いを残したくはなかった。


「落ちんな! まだや!」

 大久保も一緒になって叫ぶ。

 FAで移籍してきてよかったと思えるには、もっと勝利が必要だった。


「まだ! あと少し!」

 希の叫び声は、引退した師匠への思いも一緒に乗っていた。


 泣いても笑ってもこれで最後だ。

 少しでも夢を見たいのも、悔いが残らないようにその望みを叫びたいのも、野球人としての性だった。


 ボールは風に流されながら、ゆっくりと落ちてくる。


 誰もが叫びながら、本当は心のどこかで諦め方を探していた。

 なるべく傷つかない、夢からの覚め方を考えていた。


 右翼手はそれにあわせてまた少しだけ下がる。


 しかし――


「――え?」


 全員が視線を落とすと、そこはすでにアンツーカーだった。


 背中がフェンスに触れた瞬間、右翼手が信じられないと言う様子で振り向くと、その頭上を打球がふらふらと飛び越えていった。


 ボールがスタンドにポトリと落ちた瞬間、ドルフィンズファンは喜びを爆発させた。


 逆転のドルフィンズは、最後の最後に大逆転をやってのけたのだ。


◆試合経過(湘南−福岡・日本シリーズ5回戦)

福岡 000 005 000 =5

湘南 002 200 002X =6

湘南の継投:ダグラス(4回)、バワード(1回)、大島(2/3回)、神田(1+3/1回)、叶(1回)、立花(1/3回)、伊藤(2/3回)-谷口、戸高

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