第67話 自信
「どういうことですか?!」
スタメン捕手に自分の名前を告げられ、戸高はホワイトラン監督に詰め寄った。
「何がだ?」
与えられた栄誉になぜか怒り混じりの表情を見せるルーキーに少し戸惑いつつも、ホワイトラン監督はその理由を尋ねる。
「俺は、ダグラスのボールを試合で受けたことありません。」
それもそのはずだ。
ダグラスは今年加入し、先発ローテの要としてシーズンを投げ抜いてきた。
他方、戸高は楓とともに試合中盤以降で出場し、以降のリリーフ投手のボールを受けてきた。
試合の中で2人に接点がないのは当然だった。
「谷口からの進言があってね。私もその通りだと思う内容だった。」
予想通りの回答に、戸高は振り返って谷口をきっと睨みつけた。
谷口も目を逸らすことなく視線を返す。
「球種の少ないダグラスに疲労がたまっていたら、配球が生命線になる。傾向とデータが蓄積している谷口よりも、君がマスクをかぶる方がリスクは少ない。」
淡々と正論を吐くホワイトラン監督は、前日の2人のやりとりを知らない。
「たしかにそうですけど……!」
不服そうな顔を見せる戸高に何があったのか、ホワイトラン監督も察したようだった。
「これは君にとってチャンスでもあるが、同時に大きなリスクを背負っている。」
その言葉に対し、不可解な内心を片方の眉毛を上げて示す戸高。
ホワイトラン監督は構わず言葉を続ける。
「初の先発マスクで結果が出せなかったら、監督の私やバッテリーコーチ、投手コーチはどう思うだろうね?」
その言葉にはっとなる。
これまで、とにかく谷口から正捕手の座を奪うために努力することだけを考えてきた。
それは、キャッチャーというポジションが固定になじむからだ。
つまり、最も強く要求されるのは「安定感」だ。
初めてスタメンマスクをかぶっても、結果が残せなければ次のチャンスはいつ回ってくるか分からない。
ましてや、初めてのマスクは、いつもと違う起用という「イレギュラーに対応する能力」というのも見られる。
初スタメンという「取り返しの付かない場面」を、負ければ王手をかけられるこの大事な試合で用意されてしまったのだ。
「まさか、君は谷口が自分に対する『お膳立て』でもしたと思ったのか?」
ホワイトラン監督は迫真に迫るように戸高を見た。
「いえ……なんでも……ありません。」
戸高はこのとき初めて自分が置かれている立場に気づいた。
1日も早く正捕手になりたいと思ってはいたが、心のどこかでまだまだ無理ではないかと思っていた。
だからこそ、毎日のように焦りが生じ、まずはスタメンマスクをかぶるという、正捕手になるための手段が自己目的化していたのだ。
正捕手というのは、オーダーの軸になる捕手のことだ。
スタメンでマスクをかぶるということは、「明日の試合以降もこの捕手でいきたい」と監督に思わせられるだけの結果、そしてそれを出すための実力があって初めて挑戦すべきテストだった。
降って湧いたスタメンマスクと、自分の今の実力を冷静に考えると、戸高の足はすくみ始めていた。
(ここで結果が出せなければ、スタメンマスクはむしろ遠のく……。)
そのことに気づいて、今更緊張がこみ上げてくる。
谷口が監督に進言したのは、戸高を正捕手に推薦する意図も、失敗させて正捕手とから遠のかせる企図もなかった。
単純にダグラスのリードのパターンが読まれる可能性があり、王手をかけられるわけにはいかないこの大事な試合で、守備に「意外性」が要求される場面だっただけのことだ。
戸高はこの大事な試合で、チームの命運だけでなく、自分の野球人生の行く末も賭けて戦うことになってしまったのだ。
選手たちがぞろぞろとグラウンドに出て練習を始めようとする中、戸高はダグアウトに立ち尽くしたままだった。
ただでさえスタメンでの出場経験はないのだ。
ダグラスの立ち上がりをどうするか、2巡目のリードはどこまで変えるか、どのボールを中心に組み立てるか……頭の中を課題が駆け巡る。
しかもダグラスとは信頼関係はおろか、ほとんど話したこともない。
何からどう話していいか、分かったものではなかった。
そのときだった。
「かーっ! やっぱり毎日タイタンズファンに囲まれると威圧感が違いますなーっ!」
冗談交じりに神田に話しながら、ウォームアップを終えた楓が歩いてくる。
どうやらこれからブルペンに向かうようだ。
「おや、これは初スタメンマスクの戸高くんじゃないですか。」
茶化し混じりに声をかける。
「おう……。」
いつもと様子が違うのは、誰が見ても明らかだった。
楓は、「ちょっと先に行っててください」と神田に告げると、ダグアウト廊下で戸高の隣に座った。戸高もそれにあわせて地べたに腰を据える。
そういえば、春先に打たれまくって自信をなくしたとき、奏子ともこうして話をした。
楓の頭に懐かしい思い出がよみがえる。
「さすがに、CSでいきなりスタメンは緊張する?」
直球で質問をぶつけてみた。
「ああ、まあな。ただ……」
そこまで言って、戸高は口ごもった。
「待って、当ててみる! えーとね……」
楓はそう言うと、勝手にクイズゲームを始めた。
戸高は、楓なりに緊張を解きほぐそうとしていると分かって、トゲトゲした心が少しほころぶのが分かった。
「結果を出さないとむしろスタメンが遠のくと思って、プレッシャーになってる!」
「いきなり当ててどうすんだよ!」
思わずツッコミを入れてしまっていた。
普段は戸高の天然ボケに楓が突っ込むことが多かったのもあり、2人はこの違和感に思わず吹き出した。
だが、こうして戸高の悩みを一発で当てられるようになったのは、楓との間にこの1年で確固たる信頼関係ができていたことの何よりの証左だ。
戸高は観念したような顔をすると、ため息交じりに話し始めた。
「さすがにもうちょっと、心の準備をしたかったよ。」
「だよね。でもさ、ホワイトラン監督って、いつも突然じゃん。」
「そんなもんかなあ。」
「そうだよ。例えば……女子選手に2週間で新球種を身につけて帰ってこい! とか?」
楓はいたずらっぽく笑って言った。
2週間でスクリューを身につけさせるというアイデアを出したのは、他でもない戸高だった。
「明日は我が身だったよ。」
戸高も苦笑して答える。
2人は今度は少し静かに笑った。
「でも、そういうとき、戸高くんいつも私に言ってたじゃん。『動揺するのは、2つ以上の問題が絡まってるだけだ。1つ1つの問題にひもとけば、必ず解決策はある。』ってさ。」
「そういえば。まさか、立花にそれを言われるとはなあ。」
「失礼な! 何を隠そう、私プロ野球選手なんですけど。」
そう言うと、楓は立ち上がった。
「しょうがない。今度は私が戸高くんの臨時コーチになってあげよう!」
そう言うと、楓はブルペンへ戸高を連れて行き、先発のダグラスに話しかけた。
はじめは身振り手振りで何か伝えようとしていたが、まったく伝わらないのを見かねて、通訳が飛んできた。
その様子が滑稽で、戸高はまた吹き出しそうになったが、自分のために一生懸命になってくれる楓の気持ちが嬉しくて、笑うことなどできなかった。
「戸高くん! はいそこ座って!」
楓はそう言うと、ダグラスをマウンドに立たせ、投球練習をするように通訳に告げた。
ここまではよくある試合前の光景だ。
しかし、今度は楓自信が左バッターボックスの位置に立った。
手元には戸高が普段使っているノートPC。
「これ、ちょっと借りるよ。」
戸高の仕事用PCは、他の選手がデータを見られるようにあらかじめパスワードロックをかけずにいた。実際、他の選手が分析のために借りに来ることがあったが、その分析内容が複雑すぎて、音を上げる者がほとんどだった。
「じゃあ……3回裏、1アウト1・3塁、バッター太田! 2ボール、1ストライク!」
楓は戸高の前でそう叫んだ。
どうやらケースを想定して投げさせようと言うことらしい。
(こういうとき、どうする? まだ3回。つまり2巡目か……こういうとき谷口さんなら……。)
戸高はセオリー通り、ダグラスにインローのストレートを要求した。
ダグラスの重い直球なら、間違いないだろうというリードだ。
要求通りに投げられた150km/h超のストレートが、戸高のミットの大きな音を立てて収まる。
「えーっとね。結果は……」
それを見て、楓は慣れない手つきでPCを操作する。
「残念! このコースと球種の打率は.491! 打たれまーす!」
楓の明るい声で告げられた死刑宣告を聞いて、戸高ははっとなった。
楓の手元を見ると、自分と同じデータの使い方をしていた。
投手、打者、場面を想定して、最善の策がとれるようにカスタマイズされた自己流のデータ。
これを用いて毎日のように一緒に相手打者の分析を重ねるうちに、楓も戸高の分析方法を身につけてしまっていたようだった。
「戸高くんさ……」
楓はバッターボックスの位置からちらりと戸高の方を向いて話しかける。
「いつも通りでいいんじゃない? ここまでやってる野球サイコパスなんて、戸高くんくらいだよ。ホワイトラン監督が意外性を求めたなら、きっと戸高くんの『いつも通り』が何よりの意外性なんだと思う。」
「立花、それ、褒めてるんだよな……。」
戸高は苦笑しながらも、リラックスした表情を浮かべる。
「ほらほら、本当は何を要求したかったんだい? 言ってこごらん?」
楓は自分なりに悪そうな表情を一生懸命作って、戸高に迫る。
「アウトローに……ボールになるチェンジアップ……。」
「あえてボールになる変化球なのか。どれどれ……。」
楓はそう言ってまたPCを操作する。
「へえー! 太田さんは同じ状況で4回中4回空振りしてるね。 さっすが野球サイコパス!」
「なあ……それ、本当に褒めてるんだよなあ?」
「あったり前じゃないですか。」
楓はPCから戸高の方へ視線を移すと、
「たぶんさ、戸高くんは大きすぎるチャンスを目の前にして、いつものリードを見失ってるだけだよ。感覚戻ってくるまで付き合うからさ。自信持ちなよ。」
「立花……。」
まさか楓に助けられると思っていなかった戸高は、言葉に詰まる。
いつも捕手として、投手を助けるのが務めだと思っていた。
特に楓が打たれて必要とされなくなることは、自分自身のチームでの存在意義にも関わる。楓だけは絶対に自分が助けて、一軍に定着させなければと思っていた。
「はい、試合開始まで時間ないよ! 次はね……4回裏、2アウト3塁! バッター山本! カウント3ボール2ストライク!」
楓は戸高の次の言葉を遮るようにそう言って、今度は右打席に立つ。
結局その急造練習を、試合開始直前まで続けた。
「よし! もうだいぶ打たれるケースを外せるようになったね! じゃあ、私もアップ行かなきゃ。じゃ、頑張ってね!」
楓はそう言うと、慌ただしくダグアウトの方へ消えていった。
結局、試合が始まってからも楓はブルペン、戸高はベンチとグラウンドにいるため、2人が顔を合わせることはない。
(立花、ありがとな。)
戸高はさっき言いそびれた言葉を内心でつぶやくと、1回の裏の守備についた。
(大丈夫。これまで分析してきたデータは自分の体に染みついてる。自分の感覚を信じるんだ。)
決意したように唇を一度かみしめて、ダグラスにサインを出す。
これまでは試合の流れができていた中盤以降にマスクをかぶることばかりだったが、自分がやってきた分析や打者の癖読みは1回の守備から十分に通用した。
大学時代から打者としても警戒されることの多かった戸高だからできる、打者心理をも加味したリード。
それは一風セオリーから大きく外れたように見えて、実は打者の傾向や癖から裏をかく合理的なものだ。
ダグラス−戸高のバッテリーは、2回までタイタンズ打線をノーヒットに抑える好スタートを切った。
ドルフィンズは2回表にフェルナンデスのソロホームランで1点を先制し、リードした状態で試合の立ち上がりを終えた。
◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル3回戦)
湘南 01=1
東京 00=1
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