第8章 夏至の暁降ち

 店主が窓辺に立って、外の闇を見つめていると、背中の扉が音を立てた。


窓ガラスに映った影に店主はハッと息を飲んだ。


(野風?!)


「まだ起きているのか」


その声は男のものだった。

店主は苛立ちを押し殺して、振り返った。


「なんの御用にございましょうか」

無意識に、痛むこめかみに手を当てて撫でながら応えた。


「痛むのか」

男の手が伸びてきて、肌に触れそうになった。

店主はさりげなく身をかわすと、男を睨めあげた。


「触らないでくださいまし」

ふっと男はおかしそうに笑った。

しかし、あっと思う間も無く、引き寄せられ、抱きすくめられた。


「おやめください」

店主は軽く突き放そうとしたが、思いの外、男の力は強い。

眉根に皺を寄せて不快を顔に昇らせると、身をよじって思いっきり突き放そうとした瞬間


男が耳元で囁いた。


封印されたあの名前を


「え」

店主は目を見開いて男を見た。


「の、野風?」


力が抜ける。


「少しは、わしはぬしの心に入り込めたか」

黒目がちの瞳と視線が交じり合う。


それだけ囁くと、すっと体が離れた。


追う店主の腕から、男の体が離れていく。

指先から、野風の指が滑り落ちていく。


呆然としている店主を残して、

振り返った男は二、三歩歩いて


ニヤリと笑い


煙のように


散った


「え!」

店主は狼狽した。


「野風!」


野風の姿が……


散った?


そして


封じていた名を呼ばれた。

「そんな、野風!突然」


(封印が解けていく)

体内から抗えない力が目覚め、変質していく。


店主は思わず自分の細い体を抱きしめた。

その力から自らを守ろうとするように。


(戻りたく……ない)

「……のかぜ」


思いがけない感情が湧いて、白い肌を涙が一筋落ちた。





 「笛の音が」


付喪神たちが、ふっと目を上げ、耳を澄ませた。


突然、野風の笛の音が鳴り響き、そして、高い一音を残して、突然止んだ。


「野風」


付喪神たちは、吹き抜けのエントランスに集まって、野風が閉じ込められている二階を見上げた。


不吉な……


突然、店主の強い気配が傍にいる事に気がついて、階段の方を振り返った。

階段を降りてくる店主の返す微笑みは透き通って、哀しげにすら感じられた。


「時が満ちてございます」


店主の微笑みが薄闇に溶けて消えていきそうだ。


その儚げな風情と反対に、空気が肌に痛い程、ビリビリと尖っている。


ぬしは野風を助けに行かへんのか!もしや野風を散らせるつもりやな!」

るいは鋭い声を上げた。


涕の隣に立っていた銀色の執事が、突然感情的な声をあげた涕に驚いて、何かからかばうように手を回した。



「この死に損ないめ!」



シンとしたエントランスに、思いも掛けない涕の尖った言葉が響いて、付喪神たちは身をすくめた。


「涕。そんなことは言うてはいけぬのぅ」

鏡の付喪神である於杏おきょうが、涕をとがめた。


「止めなくても、結構です」


店主はせせら笑った。

「死に損ないではありませんよ。死神のなみだ


「主は、何を言うておる!」

厚が引き留める笄を引きひきずったまま、店主に近づいた。


「言うていいことと悪いことがあろう」


「私は死に損ないではないと申し上げただけにございます。

涕が死神なのと同様に、ただの役立たずなだけです。

それを申したかっただけ」


厚は探るように店主の顔を見た。

「主は……まさか」


「しかし、私は二度としくじりはしない」


店主は厚に背を向けた。


コトリ……


突然、店主から藤の花が落ちた。


ハッと厚たちは目を合わせた。


「それは、まさか野風の笛に巻いておったつる


藤の花を店主は細い指で拾って、ニタリと笑った。


「はい。これが、野風がその昔、私に着けたかせにございます。

美しいでしょう?


野風が封印を解かれました」


「それは……」


「野風が解いたのか!それとも野風が散って解けたのか!」

涕が叫んだ。


その付喪神は、それに応えず、少女のように美しいのに、血の香りのする壮絶な微笑みを、薄紅の唇に浮かべた。



「時が満ちた」


それは、夏至の日だった。


その夜は満月だった。



そう、満月だった。


エントランスの天井から差し込む月の光が、店主の顔を照らすと、まるでベールを剥がしたように、滴るような悍ましい美貌が現れた。


白く滑らかな陶器のような肌に細い吊り目がちの瞳が輝いている。

長い銀色に見える黒髪がはらりとたなびき、血の匂いのする弑逆的な笑みを浮かべた付喪神はうそぶいた。


「やれやれ、やっと自由になったわ」


ハハハハハ


背筋が凍るような冷たい笑い声が響いた。


「封印が解けたからちゅうて、ええ気になりおって!

力が戻ったんやったら、さっさと野風を助けに行ったらどうや!

散々世話になったくせに!」


「自分の始末は自分でつける。

茶杓風情に指図される覚えはないわ」


るい!やめろ」

殴りかかりそうになった涕をあつが止めた。

ぬしかなう相手ではない」


構わず、執事の腕の中で泪が叫んだ。

「野風を道連れにするつもりやあらへんやろな!この恩知らずめが!」



「黙れ!茶杓。誰に向かって物をいうておる。貴様、斬り捨てられたいか」


振り返った店主だった付喪神は、涕を睨めあげた。

切れ上がった黒々とした感情のない瞳に、満ちた月の光が輝く。


「我を貴様のように自分の命運に主人を道連れにして、死に至らしめる呪われた付喪神と一緒にするな」

少女のような愛らしい唇を忌々しげに歪めると、カッと涕に向かって唾を吐きかけた。


それは、あの付喪神の復活であった。


「軟弱な笛の付喪神など知らぬ。大事なのは主人あるじ、それのみ」



ギラギラと輝く、鋭い瞳が剣吞だ。


「あれはあの愚かな笛の付喪神が勝手にやったことじゃ!


恩だの、世話になったの。

全くうるさいわ。


我は我が使命を全うするだけじゃ!」



紅蓮の炎が再び燃立つ宵が来た。





ゆっくりと満月はその天を巡った。


下界では付喪神たちが不安そうに時を待っていた。




厚が

笄が

小柄が

目貫が

司南が


鈴里が

結が

於杏が……


閉まった扉の前に佇んで時を待った。


「まず野風の生死を確かめて、散っていないのなら、散らさせるな」

言いたいところだが

すでに本性を露わにしたその付喪神に言えたものではない。


皆は顔を見合わせ、難しい顔をするだけだ。

待ち望んだ日であるのに、野風の生死が気になって、気持ちが定まらない。






「青蛙神」


「ほう。野風のかせが外れたか」


香炉から変化した蛙のような顔の老人がニヤリと嗤った。


その付喪神はそれに応えず、袂から螺鈿らでんの箱を取り出し、青蛙神に投げた。



「良いか、光忠みつただ


老人は店主だった付喪神の名を呼び、覚悟を聞いた。


白い小袖に背の高く細い体を包んで、黒い髪の毛を長くおろした光忠は


「もとより」


切れ長の鋭い瞳でその不埒な問いを斬り捨てた。



「我は一度滅んだ身


それを乃可勢のかぜが探し出し、貴様にこの世に再度呼び戻された。


勝手な振る舞いじゃが、感謝せねばならぬな」


クククと光忠が笑った。

笑い声さえ美しく禍々しい。


「既に主人あるじを迎える準備も整った今、護り切れなかった我が主人を蘇らせるための依代よりしろ以外、なんの生があろうか」



老人は「うむ」と頷いた。




「さすれば、そこへ」


一瞬、笛の音が耳元で聞こえた気がした。

抱きしめられた感触が蘇る。


【また会おう、光忠】


(あの世でか、乃可勢のかぜ

 貴様はほんにしつこい)



目を伏せて、睫毛で頬に影を作った光忠の表情に、青蛙神は目を細めた。



「野風は」


「軟弱な笛の付喪神など、我となんの関係があろうか」


光忠は老人を斬りつけるような睨んだ。


「早うせよ。我が主人が待ちかねておる!」


「左様か、さすれば」


座った光忠の前には、双子の少女の付喪神が座っている。


老人は螺鈿の箱を取り上げると、水を飲むようにさらさらと七色に輝く玻璃はりの欠片を口の中に取り込んだ。



「うむ」



もう一度大きく頷くと、老人は再び香炉に変化した。


そして、付喪神たちが通した玻璃を焚いた、真の蘭奢待らんじゃたいの芳香を


その禁忌の重い香りのする、ねっとりとまとわりつく七色の霧を


コプリと吐いた。



その煙は床につくと、さらに広がり、ゆっくりと館を包み込み始めた。


(私があの方を愛したのは)


白く細い手で、熱く焼けた青銅製の香炉を持ち上げると

鼻の先にそれをかざし

その香りを胎内に取り込み始めた。


七色に輝く透明な霧が舞い、世界を包んでいく。

野風の力を失った、黄金の野原が崩落し

薄闇の世界も白いかけらがほろほろと落ち始めている。


(あの方が常に孤独で在られたから)


ゆっくりと世界が包まれていく。

ゆっくりと世界が壊れていく。


(あの方が立たれていたのは、孤独の極み)


夏至の夜の短い夜の闇が濃くなって行く。


(私だけがあの方を支え、道を拓いていけると信じたから)


付喪神が器を越えて人の子の純粋な思いを玻璃は、青蛙神の香炉で焚けば、真なる蘭奢待の、人の子が欲して止まぬ禁断の香の付喪神「反魂香」と成る。


濃厚な「反魂香」の香りの狭間を突いて

フワリと野風の遺した藤の花が薫った。


(しかし、それは誤解だったのかもしれない)



「参る」


香が燃え尽きると、光忠はその香炉を卓に置いた。


玻璃はりがそのまま煙になったような、七色にきらめく、甘く重い煙があたりに充満している。


光忠の体が震え始めた。



白く輝く満月が空をゆく。


世界が銀色に光っている。


短い夏至の夜が更けていく。



この世の禁忌である付喪神はんごんこうが、光忠の体を蝕んでいく。

代償を寄越せと攻めたて、牙を剥いて、付喪神の魂を内側からその命をすする。


「グッ!」

白い顔の眉間に皺を寄せ苦悶の表情を浮かべた光忠は、左右、前後に激しく体を揺すり始めた。


反魂香は、光忠の付喪神の霊肉を食み、信念である骨を噛み砕き、思いそのものの血を啜る。


ジュルジュルと、グチャグチャと、内側から侵していく。


苦しそうに体を震わせ、こみ上げる吐き気に耐える。


ジワジワと侵食され溶けて行く。


「グハ!」


光忠の体内に産まれた、その禁忌の付喪神は満足そうにゲップをした。


すると光忠の体が内から七色に輝き始め、ぶくぶくと膨張を始めた。


と思うと、最大限に膨らんだ光忠の皮が


ボフ!


弾け、破れ、中から七色の重々しい物質が噴き出し始めた。


光忠の皮は床に落ち、ごとりと音を立てて、何かが落ちた。



光忠の命を啜ったその悍ましい付喪神が、収まる器を求めて一対の異邦人の付喪神にズルズルと這いこんだ。


その禁忌の付喪神を体内に取り込んだ少女たちは、更にもがくように光り始めた体をうごめかせ、見る間におぞましい鬼神と龍神に変化した。


突如、その足元を舐めるように七色の炎が立ち、二体を追い立てるように燃え上がった。


その熱に、二つの南蛮灯のガラスが粉々に砕け散り、キラキラとガラスの破片が、炎の噴き出す熱い風に空を舞った。

金色の華奢な枠が飴のようにグニャリと音もなくねじ曲がり、床に落ちた。


砕けたそれを見た二体は身を翻し、青蛙神が作った七色の雲の中に消えていった。


それと共に勢いを失ったオレンジ色の炎は、一瞬あの光忠と呼ばれた美しい付喪神の姿を映した後、自ら生み出した鬼神と龍神の後を追って雲の中へ消えていった。


その日 帝都が揺れた。




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