第5章 楽園からの帰還
ゆっくりと霧が晴れていく。
白いカーテンに隠れていた、木々が再び現れて、幻想的な世界から、現実の世界に戻っていく。
(遭難して死ぬかと思ったけど……
まだ戦士は現実という敵と戦うのだ。
溜息と共に見渡した先に、人工的なフォルムの影がある。
「ああ、あれ、神社だ」
(何だ、大して迷っていたわけじゃなかったんだ)
名残惜しいが、
「私、行くね。じゃあね、
「殿と父上の
竹丸は、必死で愛しい人の後ろ姿に叫んだ。
「え」
そんなに離れていないのに、よく聞こえない。
まだ残る霧のせいだろうか。
それとも露を含んだ草を踏みしめる音のせいなのか。
(きっと、お父さんにしたいことをいうんだな)
「わかったよ!頑張ってね!」
バイバイと手を振る。
「必ず!必ず、取次のものを遣わす故!待っておってくれ!」
消えていく後ろ姿に、竹丸は叫んだ。
「志信ぅ〜」
鳥居の近くまで行くと、紗凪がぶつかるようにして抱きついて来た。
紗凪の体を抱えて肩越しに見たが、晴れて行く霧の向こうに、もう竹丸の姿は見えなかった。
「え、中学生?」
霧の中であった事を話すと、紗凪は目を丸くした。
ゴトンゴトンと電車は揺れて走る。
「スマホ、朝、家に置いたままだったらしくってさ、住所書いてくれた」
紗凪にゴワゴワとする紙を開いて見せた。
「うっ」
二人は絶句した。
達筆だ。
凄い綺麗な字だ。
曲線といい、墨の……かすれ具合といい。
書道展に出せば金賞間違いなしだろう。
が、達筆すぎて読めない。
紗凪が笑った。
「あ〜、芸術的ね」
これでは連絡は取れない。
(やっぱり縁なんて無かったんだ……)
ちょっとした喪失感が胸を襲う。
(まぁ、中学生なんて犯罪ですし……)
コツンと額をつけた車窓の向こうに、景色が流れて行く。
緑の草が揺れる田園地帯から、家が
空が小さくなって行く。
その頃、竹丸も紙を見つめて呆然としていた。
これは……暗号?
縦書き筆文字しか知らない竹丸には、横書き楷書の志信の文字は、暗号でしかなかった。
「そうじゃの、簡単に
ふふとニヒルに竹丸は笑った。
(しかし、身は
庭では虫の音が高く鳴り響いている。
「何、
竹丸は
しかも主家の当主の小姓として出仕をしている。
「志能備に縁が付くのは当家にとっても、申し分はない。しかし」
あれは人ではない。
「それを正室にというのはどうか」
武家の婚儀は、側室に至るまで政治である。
好き嫌いではなく、
それに、嫡男ではない男児は、当主に難儀な相手を押し付けられた時、嫡男が不利にならぬよう、身代わりにその相手を正室として引き受ける必要がある。
また、主家の当主の小姓となれば、当主から家臣同士の絆を深める目的で、縁組を申し付けられる事もある。
丁度、婚儀の形態が、移行期にある時代である。
正室として迎え入れていても、身分が上の者が嫁いでくれば、側室として身を
それを志能備の者が納得するのか。
「それでも尚!」
竹丸は父親の
「父上とて、身の母上と縁を結ばれた折には、多くの反対を押されたと聞き及んでおり申す!
どうか身の我儘をお聞き届けくださいますよう
その分、身は家の為に労苦を厭わず、処する所存にござり申す!」
「殿がなんと申されるか」
「既に願い出ており申す」
ふっとした瞬間にあの真っ直ぐな黒い目を思い出す。
懐かしい想いのする、仔犬のようなあの瞳。
だけど、余りにも非日常過ぎて、
ただ
部屋の机の上で、揺れている
「霧の中で、年下の可愛い子に出会ってさ〜、ロマンティックゥ〜」
最近よく遊びに来る紗凪が、頬づえを付いて、笑いを含んだ瞳でこちらを見る。
「志信、あの子に恋をしているんじゃない?」
「いや、無いわ〜。第一、それって犯罪じゃん」
確かに、あれ以来、病んだ思いの代わりに、竹丸との
真っ直ぐな笑顔。
仔犬のような瞳。
そして、手の甲で濡れた唇を拭った時の、思いがけない色っぽさ。
(そうなんだろうか)
もしかしたら、
志信ほど
なんて事言われたから?
(ちょろいな、私)
「でも、連絡先もわかんないし、どうしようもないじゃん」
「春になったらって言われたんでしょ?」
志信は、紗凪の顔を呆れたように見た。
窓からの光を受けて輝く黒い瞳が、志信を見返す。
「あのね?春って、三ヶ月間もあるんだよ。
毎日、あそこへ通える訳じゃ無いし……
「大丈夫、運命の相手なら逢えるよ」
志信はため息をついて、後ろに倒れた。
(紗凪ときたら、ホント〜に、お気楽)
「春に会いに行く時には、写メとっときなよ!」
会いに行くのだろうか。
逢えるんだろうか。
志信は紗凪が買ってくれた、あの
『志信のように見目麗しい女子はそうはおるまい』
寝取られて、女として自信を失った心に直球な一言が、スポンとハマった。
(ほんと、ちょろい)
志信は苦笑いを浮かべだ。
「やだ!ロマンティックゥ〜」
紗凪が志信の脇を突っついた。
晩秋の空は青く澄んでいる。
この空をあの日に焼けた少年も見上げているのだろうか。
「志信のように見目麗しい女子はいない」
と、まだ思っているだろうか。
紅く染まった葉は地に落ちて、季節は冬に移り変わっていく。
年が明ける頃には、段々と人間関係も落ち着いてきた。
他の男と浮気していた割りには、志信の周りに男っ気がない。
入社して数ヶ月なんて、仕事に慣れるのに精一杯じゃないのか。
おかしいのは志信じゃなくって、元彼たちでは……
少しずつ、元に戻ってきた。
でも、もう元には戻らない。
信頼していた世界は鏡のように砕けて、幾らカケラをかき集めても、元のように像は結ばない。
志信はほうと窓ガラスに息を吐きかけた。
白く曇ったそれは、竹丸と志信を包んでいた優しい世界に似ていた。
「竹丸」
会いたい……
「かもね」
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