第5章 季節の終わり


 伊万の出立の日がやって来た。


伊万は家族に挨拶をし、式台しきだいを降りた。


そして二、三歩歩いた所で振り返った。


(私はここへ心を置いていく)


伊万は分かっていた。


正室でも無い。何十人といる側室の一人だ。


(いいえ。そのほうがいっそ、気楽)



それでも、一つの人生の幕は閉じて、全てを置いて行かねばならない。


この土地に住む全ての人の人生を背負って、伊万は何もかもが違うみやこで生きて行く。


共に上洛する侍女たちが、伊万を見て硬い表情で頷く。


式台の下で待機していた輿こしに乗り込む。


ゆらり


輿が持ち上がり、伊万は住み慣れた屋敷を後にした。



伊万の乗った輿は南へ進む。


二本の主棒に支えられ、日除けの屋根と背板、布と御簾に囲まれた小さな小さな箱のような輿だ。


父の領地を進む間は、事情を知る民が悲壮な様子で街道に並び、伊万の輿を見送った。


(それでも、今だけは)


空にそびえる高く青霞む山々を見ながら、伊万は思った。



ヒグラシが鳴いている。


まだ夏のうちだというのに、早くもその終わりを告げるように。


秋水あきみずの元へ嫁ぐ途中と思おう)



北国の盛夏を過ぎた雲の滲む透明な青い空は、底がしれない。


あれは秋水と初めて会った日の、あの野原の空だ。


あの空が伊万を見ている。


北から南へと進む伊万の花嫁道中には、夏の終わりから初夏へ向かっている心持ちがする。


(時をさかのぼっているみたい)


心が固くこわばっていく。


休憩のために河原に幕を張り、そこへ入った伊万は二度と見ることのない故郷の山々の青い頂きの、今はもう先しか見えぬそれを眺めた。


(秋水!)


最後にその名前を、あらん限りの思いを込めて、心の中で叫んだ。





 秋水がその日も、野を舞う光に誘われて、川のほとりへ足を運んだが、そこにいたのは、野風ではなく、背の高いのっぺりとした男だった。


中洲に立ち、先に光る何かを入れた竹籠たけかごをつけた、長く細い竹を片手に持っている。

川に落ちたものでも掬っているのだろうか。

「えっと、探し物ですか」


秋水が聞くとその男、店主は楽しそうに笑い声を立てた。


「ええ。今は店もしておりませんし、野風が留守をしておりますので、手伝いをと思いましてね」


ゆらり、ゆらり、竹籠を揺すると、川面に蛍が飛ぶように、光の粒が散乱する。


そのさまは野風の笛の光に似ていた。


「野風は留守なのですか」


「ええ、用事を二つほど、うつつでされて帰って参ります。

ああ、一つは先日の女性の方のことでね」


「あの金色の?」


ええと店主は頷いた。

「御二方も似た時期に渡らせなければなりません故に、司南しなんの力だけではどうにもこうにも。

司南も力あるものでございますが、休みなく働いて散りでもすれば、大変な損失にございます。


それで、少々仕掛けをして、偶然できた穴を通すことにしたのでございますよ。」


「穴?」


「ええ、穴というか亀裂でございますかねぇ」


「もうひとつの用事とはなんですか?」


踏み込み過ぎるのも、失礼かとは思ったが、店主は嫌な顔をせず応えた。


「それはいつものことでございますよ。

人探し、物探し……」


「人探し?」

聞き返したが、今度はその話題はもうおしまいとばかりに、店主はまた竹籠を揺すり始めた。


しかし

「ああ、なかなか、難かしゅうございますね」


何度目か、竹籠を揺すると、店主はため息をついて、秋水の隣に腰をおろした。


「あなたはどうされたのでございますか」


秋水は、店主の白い顔をまじまじと見つめた。

飄々ひょうひょうとしたその姿は、浮世の悩みと無縁に見えた。


「秋水さんとおっしゃるんですよね」


秋水が口ごもっていると、野風から聞いていたのか、店主はそう言った。


「お父様は帝国軍の戦闘機の関係の方でございますか」


「ええ、海軍の技術官だったそうです。『秋水』は陸海共同の試作機の名前ですね。結局お役には立たずに終わったようですが」


秋水が苦笑いをすると、店主は首をふった 



「きっと夢を託されたのでございましょう。」

店主は空をあおぎ見た。


あの空を飛ぶはずだった、戦闘機を探すように。


「そうだったのかもしれませんね」


秋水は写真でしか見たことがない父の面影おもかげを思った。


冷たい海のそこで眠る優しい瞳の若い父を。


「手伝うか」


店主と川岸に座っていると、目つきの鋭い男が声をかけてきた。


その男も店主が持っているのと同じような籠を持っている。


「何をですか」


秋水が聞くと、ニヤリと笑って顎をしゃくった。



「ここは野風が作った時の淀みの空間じゃ。

別の時のない世界と重ねて、その川からすくい取った者を離してある」


「ええ、少し前に野風が準備のために作ってくれましてね。

綺麗でございましょう」


 懇切丁寧に説明してくれているらしいが、そもそもの意味がわからず、秋水が首をひねる。


「なんのために?」

秋水の問いに、店主が笑い声を立てた。

「じきに分かりますよ。秋水さん。

さあ、もう少し掬い上げておきませんと、帰ってきた野風に大きな顔はできません」



不思議な男達と秋水は川の流れの上で籠を揺らす。


そして、光の粒をまとう珠をすくい上げて、空に放つ。



うまく粒を降らすのは難しいし、光の粒を纏う珠はほとんどない。


なんのためにこんなことをしているのだろう。


ここは野風が作った空間だと先ほどの男が言ったが、


「でも、なぜ、野風の作った空間に私がいるのでしょう」


「それはな」

ニヤリと先程の目付きの鋭い男、厚が笑った。

「我と主が相愛そうあいであるからであろう」


クククと笑う厚を、秋水は胡散臭うさんくさげに見る。

あの女には感じた親しみを、この小柄な奇妙な男には全く感じない。


「申し訳ございませんが、そんな感じは受けません」


「そのうち、そのうちじゃ。

わしが居らぬと不安になる程、恋しゅう思う相手であるのにのう。

全くつれないわ」


「え」


「お止しなさい、厚。後で叱られるのは貴方ですよ。

この方は、貴方を知らぬのでございますから」


困惑した顔で見上げてくる秋水に、店主は厚をたしなめた。


「それより、全く笄があれから姿を現しません。

ちょっとは責任を感じたらいかがですか」


奇妙なほどはしゃいでいる厚の背中に、店主は文句を言った。


「まぁ、奇妙な迷子が増えて、あなたは気が気ではございませんでしょうが」


店主は溜息交じりに、黄金に輝く空を見上げた。


「そうじゃの。まさかあの姫が迷い込んで来ようとは」

フッと表情を消して厚が呟いた。

「まさか、このものと何かある訳ではあるまい」

暗い顔の厚の言葉に、店主はチラリ秋水の顔を見た。


「さて、ただ送るだけとは思うておりますが……

大体ベレンにはそのような力はございますまい」


秋水はますます戸惑った顔で、二体の付喪神を見た。


「まぁ。野風が帰ってくれば、どんな事になろうとも何とかなりましょう。

思い煩うことはございませんよ」


「もし」

厚はフッと吐き出すように言った。


「もしものことがあらば、ワシが……

もし、もしものことがあらば、主は大事の身じゃ。手を貸してはならぬ。

そして、後の事を頼む」


重苦しい思いを吐き出した。

ところが店主は

「はい、分かりましてございますよ、厚」

ちょっとそこまで散歩に出かけると言われたように飄々と笑って返した。


「惜しむなと申しておるが、そうあっさり言われては立つ瀬がないの」

そして、ニヤリ

厚が笑った。

「しかし、ワシは貴様のそう言うところが好きじゃ。

変わってないの。

よかったわい。」


「何を……

笄にこそ、言うてやってください」


ふふふふふ


奇妙な会話を続け楽しげに笑う二体の付喪神に、秋水にフッと笑った。


(なんだか、微笑ましい)




「もう少しだけ」

伊万はそっとわがままを言った。


あと少しで京の都である。


ヌルッとした馴染みのない湿った温かな風が、吹いてくる。


それは街道を歩く、被衣姿の女の口紅の色の様だった。


聞きなれぬ言葉、見慣れぬ風景。


もしただの旅であれば、どんなに伊万を楽しませただろう。



「姫様、申し訳ございませぬ」


もし彼が歴史を知ってれば、ここで宿を取り、伊万をゆっくりと休めたことだろう。


しかし、彼は先を急がせた。


時は文禄四年、夏のことだった。


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