第6章 黄金の野の水辺


「店主殿は野風のかぜさんとどの様なご関係ですか」


伊万の苦悩も知らず、相変わらず黄金の野原の川縁に、付喪神たちと座り込んでいる秋水あきみずに問われた店主は、ちょっと驚いた顔をして、首をひねった。


「まあ、昔からの知り合い、というのか…どう」


「ああ、幼馴染ですか」


「え、幼馴染……」


あつが目をき、店主が厚をにらむのも気に留めず、秋水は頷いた。


「店主さんは、どなたか思われている方はおられますか」


そう問われた店主は、更に困った顔をして、目を彷徨さまよわせた。

厚が更に噴き出しそうになり、横目で睨む。


「左様でございますねぇ」


「我は主を思うておるぞ!二番目じゃがの!」

「え……」


戸惑う秋水に関係なく、厚は笑いかける。


厚の笑顔を見て、店主は口元を綻ばせた。



笄との一件で、なんとも店内は微妙な空気が漂っている。

あれから笄はピタリと姿を現さないし、厚も当初は気にかけてはいたようだった。

しかし、黄金の野に姫が現れるようになって以来、厚はすっかりそっちに気が行ってしまった。

ことがことだけに、皆、厚に笄のことをなんとかせよなど言わなくなった。


目貫や小柄は何か言いたげにしているが、於杏が止めている。


最近は、ここに来て秋水を見ている時だけ、厚の笑顔が溢れる。


「ほら、秋水さんが困っていてございますよ。

今度お会いした時に、何だか嫌な気がすると言うて、使って貰えぬかもしれません」


嬉しげに笑う厚を、それでも店主はたしなめ秋水に向き直った。


「聞かれている事と主旨は違うとは存じますが、命を賭けてもお護りしたい方はございますよ」


「命を賭けて護りたい。

それは深く思われておられるという事でしょう」

秋水も店主に向き直し、勢い込んで言った。

「主旨は違いません」


すると店主は喉を鳴らして笑った。

「いえいえ、左様では。」


店主は笑みを浮かべたまま、静かに、視線を秋水の顔に当てた。


「私は、あの方を自らのものにしたいとか、左様なことを考えた事など一度もございません。

ただただ、尊敬し、敬愛し、お役に立ちたいと思うておるだけにございます」


(それは確かに)


「そんな風に、どうやったら」


割り切れるのだろうか。


秋水は俯いた。




 あれは可愛い少女だった。


ぼんやりと散策をしていたら、目の前に突然小さな女の子が現れた。


なんと可愛い少女だっただろう。


生き生きとした良く動く瞳。


柔らかな丸い頬。


いろんな形に変わる柔らかな唇。




明るい笑顔と屈託の無い言動は、秋水の心に暖かなあかりをともした。


最初は背中の中程だった髪の毛も伸び、美しくすそくようになった。


柔らかな頬はぬけるように透明感が増し、長い睫毛が作る影に胸を締め付ける、物憂ものうさが宿ってきた。


名を呼べば返ってくる、弾ける微笑みに、恥じらいが混じるようになってきた。

いつも振り向けば、慕う色の宿る瞳があった。


自分の少女だと思っていたのに。


確かに、おかしいとは分かっていた。


いくら抱きしめても、まるで腕の中に誰もいないように、なんの暖かさも伝わってこない。


指を絡めても、その柔らかい感触が伝わってこない。


頬に触れても、空気に触れているのとかわりがない。


まるで蜃気楼しんきろうだ。


その少女が嫁に行くという。



一体何ができようか。



わかっていた。


ただ先延ばしにしていただけだ。

それでもなお、秋水の心は伊万に引き寄せられる。

どうしようもないのに、思い切れない。


秋水は吐息を吐いた。


「いつも側にいて、笑顔を向けてくれていました。

視線で思いが自分にあることもわかっていました」


そして、いつか奇跡が起きて、自分の腕の中にき抱けるのではないかと期待をしていた。


淡い、幼い、愚かな期待を。


「蜃気楼のような恋だとわかっていたのに」


思いが強くなれば、いつかきっと、叶うと心の何処どこかで信じていた。



店主は何か考えるような瞳で、虚空に視線を向けた。

「居て当たり前にございますか」


野風の思いでできた黄金にきらめく世界は美しい。


美しく、そしてどこか物哀しい。



いつもどこか泣いているような、野風の音色のように。



「野風はどうしているのじゃ。遅うはないか」

まるで店主の想いの方向に気が付いたように厚が口を挟んだ。


「左様で……ございますね」






 「秋水あきみず!秋水!」


秋水は母親の声で目を覚ました。


重いまぶたをゆっくりと開ける。


「ああ、秋水」

母親の骨の浮いた細い手が、秋水の顔を優しく撫でる。


秋水が微笑むと、母親も嬉しそうに微笑んだ。


(またあの夢を見ていた。あの不思議な黄金の野の夢を……)


不思議な夢を、気がつくと見続けてきた。

何時から見始めたのかすら覚えていない。


今や、もうどちらが夢で、どちらが本当か、分からなくなってきた。


(野風やあの男の人たち……)


空想の産物とは思えない。

あの声、あの肌触り……


やはり、こちらが夢か。

灰色に曇った悪夢だ。


秋水はそっと血管の透ける白い、折れそうな腕を伸ばした。


額に置かれた手巾てのぐいの、水を含んでぽてりとした重さがわずらわしい。


そっと端を摘んで、ズルズルと引きずり落とした。



べたりと湿った微かな音を立てて、擦り切れた畳にそれは落ちた。


その湿った重い布は、まるで自分の存在のようだ。


もし自分が死ねば、美しい母は、父の戦友だという、戦後成功して金持ちになった男と結婚して苦労せずに済むのに……


その男の母親が、連れ子が男の上に病弱では……と難色を示した。

男は気にしなくて良いと言ったが、母は首を横に振った。


ベッタリと濡れてのし掛かり、ジワジワ暖かさを奪っていく。


自分さえ……



「秋水」


母親は悲しそうに、名前を呼んで思考が途切れた……


視界が曇り、母の姿がにじんで消えていく。


ふっと意識が混濁する。




行く先はまたあの黄金の光が包む野であろうか。



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