第2章 墨絵の館

 


 気がつくと、千鶴子ちづこはあの竹林に立っていた。


(また来れたわ、この夢に)


不思議なことに、千鶴子はこれが夢だといつもはっきりと分かっている。


 それでも、竹林の空気まで染め上げている緑は清らかに美しく、渡る風が葉を揺らす音も、葉の間から落ちてくる陽の光もしっかりと感じる。


千鶴子が一歩踏み出すと、ふわりと敷き詰められた枯れた竹の葉が、足の下で軽く沈んだ。


(ああ、気持ちがいい)



立ち止まると、目をつむり、竹の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


(これが夢だなんて信じられないわ)


鼻腔を擽る涼やかな香り。

さざめきに似た竹の葉の擦れる音。


竹の葉を透かして、降り注ぐ太陽の光の感触。


そしてそれが閉じた瞼の裏に踊るように映る。


指を伸ばし、竹に触れるとその表面のつるりとした感触が伝わってきた。


(不思議。とっても不思議だわ)


 知らぬうちに微笑みが顔に浮かぶ。


微笑みながら、千鶴子は竹林の奥へ、奥へと歩いて行った。


まるで地から天に向かって、爽やかな緑の水が、滝となって流れて登っているようだ。


その緑の奔流ほんりゅうの間を歩く。


歩いても、歩いてもその緑は尽きることはない。


(あら?)


風の音に混じって、何か音楽のようなものが聞こえた。


気がした。


千鶴子は立ち止まった。


目を閉じて耳を澄ませると、風の音が、音階をつけて竹の間を吹き渡っているように聞こえている。


(不思議な音だわ。とても心が落ち着く音)


じっと耳を澄ましていると、正面からふわっと風が吹き付け、目の前が明るくなった。



「はっ」



そこは学校からの帰りの路面電車の中だった。


(いけない!うたた寝をしてた!)



 電車の中で眠りほうけるなんて、信じられない醜態しゅうたいだ。


しかし、ガトゴトと揺れながら走る、昼下がりの電車は人もまばらで、千鶴子の居眠りに気が付くどころか、皆、目を閉じてユラユラと電車の揺れに合わせて舟をぎ、半分眠っている様子だ。


千鶴子は苦笑して胸をなでおろした。


ゴトン、ゴトン


路面電車はゆっくりと揺れながら、昼下がりの街の中を走っていく。


ボー


警笛の音すら長閑のどかに響く。


すぐに朱鷺子ときこと待ち合わせをしている停留所に着いた。

降りると愛らしい小花模様のワンピースを着た朱鷺子が丁度、道の向こうから渡って来るところだった。


千鶴子が其の姿に気がつくと同時に、朱鷺子も気が付き、嬉しそうに手を振ってきた。

「朱鷺ちゃん!」



広い砂利道を、重い荷を牛にひかせた男が歩いていく。


ボボー


ダダダダダ


クラクションを鳴らしながら、自動三輪の自動車が追い抜いていく。


砂利道の車道の横には石畳の歩道があり、背が高く聳え立った木の電信柱が両者を分けている。


しかし、それに御構い無しに、自転車や日傘をさした着物姿の女が砂利道を行き、交差点で台に乗って手信号をしている警察官に叱られている。


道の両脇には二階建て、三階建ての商店が華やかに並び建ち、中には西洋風に壁板を白く塗ったお洒落な店舗がある。


朱鷺子と千鶴子はお揃いのような、最新式のロウウエストの花柄のワンピースにクロッシェ帽子姿だ。

朱鷺子の薄い藤色に薄黄色の花がついた優しいワンピースに対して、千鶴子は新勝色(鮮やかな藍色、大正期に流行った)に白の花の咲くはっきりとした涼しげな装いだ。

毎日顔を合わせているのに、話題が尽きることなく、笑いながら歩いていく。


「あ、ここ、ここよ」


 朱鷺子は、ステンドグラスのはまった飾り窓のついた店を、そっと千鶴子にだけ分かるように胸の前で指差した。


「あら!ここ!」


千鶴子が口を押さえて言うと、朱鷺子が嬉しそうに頷いた。

「ね」


うふふふふ


二人は嬉しそうに顔を見合わせた。





 千鶴子は骨董屋の中を見渡していたが、一枚の絵に目が吸い寄せられた。


細い木枠の額縁に嵌った1枚の墨絵だった。



墨で描かれた色のない竹は、見つめるほどに奥から色がにじみ出て来るように見えた。


朱鷺子が店主と話をしている声が遠くから聞こえる。


その声も段々と聞こえなくなり、代わりに風の吹く音が聞こえ始めた。


(これは、今さっきの夢の中で聞いた音だわ)


筆のかすれで描かれた竹の葉が揺れ、音を立てる。


つややかな竹の幹に映った光が、風で揺れる。


手を伸ばせば、鋭い葉に触れそうだ。



「あ」


「え」


突然、千鶴子が声をあげたので、朱鷺子は驚いて千鶴子の方を向いた。


「どうしたの、ちいちゃん」


「ごめんなさい。なんでもないわ。

あのね、これね、私、この絵が欲しいの」

「え、この墨絵」


朱鷺子は意外そうに、絵と千鶴子を見比べたが、すぐに笑顔で頷き、そばに立っていた背の高い店主に、会計をお願いをした。



 「へ〜、墨絵なの」


 帰宅した姉妹を迎えた母親も目を丸くした。

「ちいちゃんのことだから、油絵なんて買ってくるのかと思っていたわ」


「なんでも大名屋敷の襖絵ふすまえを切り取って作ったんですって。

ね、ちいちゃん」


朱鷺子が千鶴子に同意を求めるように振り返る。


「あ〜、ちょっと、茶色いシミみたいなのが浮かんでるのは、そのせいかしら」


母親がかけていた老眼鏡をヒョイと上に持ち上げて、目を近づけるとまじまじとその絵を眺めた。


「あら、嫌だ。ほんとだわ。こういうのってシミ抜きってできるのかしら」

朱鷺子も慌てて、目を近づけた。

「明日にでも、あの骨董屋に持って行って、お願いしてみる?」


「ううん、大丈夫よ。そこがまた良いの」


そうなのと母親と朱鷺子は目を丸くした。


「このシミが?」



 そう

(このシミが)


一人になると、千鶴子はそっとそのシミをなぞった。


(お屋敷に見えた)

夢の中で一瞬見えたお屋敷が、そのシミの中に浮かんで見えた。


(もし……行けたなら)


女だからなんてアレコレ言われて、好きに生きれない生活から飛び出して、自由になれる気がする。


ふふふ


千鶴子は可笑しそうに笑った。

(都合のいい夢ね)





(どこかしら)



その夜、また千鶴子は竹林にいた。


そしてあの屋敷を探していた。


きっとここにそれがあると、夢の中の千鶴子には確信があった。


なだらかな竹床は手入れが行き届いている証である。


その手入れをしている竹林の持ち主の屋敷が、この向こうのどこかにあるはずである。



(あ!)


立ち止まり、千鶴子は耳をすませた。


また、あの音が聞こえる。


これは竹林を吹く風の音か。


それともだれかが吹く何かの笛の音か。


(こっちから聞こえてくる)


千鶴子は走り始めた。


おかしなことに、夢の中だというのにしばらく走ると息が上がってしまった。



(最近、あまり運動してないから……夢なのにおかしいわね)


千鶴子は笑った。

仕方なく、足を緩めて、それでも早足で急ぐ。


何だか冒険をしているようで、ワクワク胸が高鳴っていく。


(夢の中なのに)





そして、唐突に竹林は終わっていた。



そっと竹の間から見ると、そこには思いの外、立派な館が建っていた。


 竹林が切れたところには、睡蓮すいれんの葉が浮かんだ大きな池があり、その真ん中には石や木の置かれている小さな丘のような島が作られて、そこからその向こうに渡る石の橋がかかっている。


渡った先は日本庭園で、こんもりとした低木の茂みや枝ぶりが見事な松の木の間に灯籠とうろうが立ち、足下には飛び石が配されている。


そしてその向こうにはL字型に日本的な平屋が建っている。


(お寺の裏手……かしら)


千鶴子は竹林を抜けて、池のきわまで近寄ると島へ架かっている小さな木の橋を渡った。


「ふふ、とんでもない大冒険だ」



人工的な小さな島だが、土が盛られ丘になったそこにはツツジのような低木と椿のようなつるりとした葉の背の高い木が立体的に植えられている。


土の匂いと木々の匂いが混じり、竹林とはまた違った、力強い自然の香りがする。



 丘を下る前に、館の方を伺って見る。


どこも白い障子が閉まり、人の気配がない。


(塀が無くって勝手に入っちゃったけど、良かったかしら)


歩いていたら自然に敷地に入っていただけだが、なんだか不法侵入のような気がする。


(お寺だったらいいんだけど……いえ、ばかね。

夢なんだから、関係ないわ)


千鶴子は、丘を下り石の橋を渡った。


橋の下は睡蓮の池で、深い緑の上に、丸い蓮の葉が乗っかって、スラリと思いがけず背の高い睡蓮の花が咲いている。


可憐な薄い桃色の花や、清らかな白い花。


竹林から吹く風がここまで追いかけてきたのか、蓮の花を揺らしている。



しばらく睡蓮を眺めた後、千鶴子はそこから振り返って屋敷の方を見た。


すると……

まるで釣鐘つりがねの様な形の窓から、こちらを見ている人影がいることに気がついた。


向こうもこちらを驚いた顔をして見ており、千鶴子が気がついたとわかると、立ち上がった。


千鶴子は息を呑むと、反射的に踵を返し、大急ぎで竹林の中に駆け込んだ。



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