時を巡る遠眼鏡

第1章 遠眼鏡


パシャリ


一節切という笛の付喪神である野風は微かな水音を聞いたと思った。


大池のほとりの元々人通りの多い道は、丁度桜の季節というので、花見客で更に賑わっている。


足を止めた野風に酔客がぶつかりそうになり、舌打ちをした。

しかし、付喪神の淡い気配は、目を逸らした瞬間に男の脳裏からこぼれ落ちて、また機嫌よく千鳥足で歩き始めた。


「野風」

茶杓の付喪神であるるいに促された野風は、歩きながら問うた。

「水の音がしたように思うたが」

「さて、この賑わいやさかい」

涕は背中の仕入れた品を包んだ風呂敷を揺すり上げた。


大池の周りには屋台やら、見世物小屋が建ち並び、昔ながらの大道芸人たちが芸を披露して、やんやの喝采かっさいを浴びている。


「何や騒々しゅうて聞こえへんかった。

鯉はんでも跳ねたんちゃうか」


のんびりと麗らかな春は始まったばかりである。




ぼん


骨董屋の店の戸口あたりに客寄せで出している台の我楽多を、背伸びをして弄っていた五歳になるか、ならないかほどの少年が、突如後ろから声をかけられて、びっくりして手にしていた筒を取り落とした。


「あ」


「おっと」


その細い黒い筒は地面に落ちる手前で、野風の浅黒い手が受け止めた。


「ご、ごめんなさい」

少年が体を竦めると、店の奥で煙草盆を見ている男の相手をしていた店主が振り返った。


時が止まったような店内に、表から入ってくる春の光が差し込み、細かなほこりが光の粒子のようにキラキラと舞っている

煙草盆を持った男が大股に少年に近づくと、声を荒らげた。


「何をしている。

勝手に触ってはいけないと、いつも言っているだろう」


少年はビクッと体を震わせると、二、三歩下がって、後ろに立っていた野風にぶつかった。

「あ」

「これは」


店主が微笑みながら、間に割って入った。


「お坊っちゃまを叱らないでくださいませ。

それは作りが綺麗なので置いてある我楽多にございます」

野風の手から細く白い指でその筒をつまみ上げた。

店主の白い手の上で、その漆を重ね塗りをした地に、細やかな文様が描かれた美しい筒がコロリと転がった。


「お子様には骨董屋は退屈な所にございますし、割れ物もございます。

こうした我楽多で気を紛らわせて頂いた方が、安心にございます」


確かに、骨董屋は子供を連れて来るような所ではない。


男は息子と散歩の途中見つけた骨董屋に、ついついフラフラと入ってきた自分を思い出し、顔を赤らめた。



 その時、男は外の方から、怒鳴るような大きな声が聞こえているのに気がついた。


今さっきまでの平和な喧騒けんそうではなく、男達の怒鳴り声や女の金切り声が、暖かな春の空気を切り裂くように響いている。


「なんだね、喧嘩けんかか」


男も店主も店の外へ顔を出した。


花見客の溢れた大池の周りだが、大勢の人がひしめくように集まって、池の方を覗き込んだり、大声で叫んだり、只事ならぬ様子である。




しばらく耳を澄ませていた店主は難しい顔をして男の方を見た。


「どうも子供が池に落ちたように御座いますね」


男は慌てて息子の肩を引き寄せた。


「この池は人が上がらないので有名だろう。何とか助かるといいな」


「左様でございますねえ」


男は息子が不安そうな顔をしているのに気がつき、急いで店主に、手に持っていた煙草盆たばこぼんを渡して、「これを」と申しつけた。


男が支払いを済ませ、品を受け取ると、店主は黒い筒を少年に差し出した。

「お利口にされていたご褒美ほうびでございます」


少年は驚いて、店主と父親の顔を見比べた。

「いただいておきなさい」


父は厳格な顔で頷いた。


外ではまだ叫び声が響いている。




 家に連れて帰られると少年はその筒をまた目にあてがってみた。


元々はその筒の穴の両方に屈折した硝子でも嵌って、遠くがありありと見えるようにでもなっていたのかもしれない。


しかし、今は内側に細く筋が入っているだけで、何の変哲もないただの筒だ。

ただ、筒の表面に金色の細い筆で描かれた桜の花びらの所々に、青貝の内側の真珠層が薄く切り取って貼ってあり、如何に職人が精魂込めて作ったか偲ばれる。


少年はそんなことも無頓着に、その穴から覗く風景に心を惹かれた。


ただの青空も、切り取られた丸い世界では、更に蒼く、横切って飛ぶ鳥の影も動く絵のように興味深く感じられた。


木々の緑も尚青々とし、瑞々しく揺れる。


家の塀の向こうに咲く桜は、あの大池の並木の重ね咲く夢のようなものではないが、それでも筒を向ければ、ちいさな丸い世界では薄桃色に烟り、小さな桃源郷に見える。



 少年はうっとりと筒の世界に見惚みとれた。


その桜の薄桃色の中に、華やかな色を見つけた。


少年は身を乗り出した。


「あ!」


桜の花のように美しい姫君が、向こうで微笑んだ。

白い顔に黒々とした瞳を細めて、口元を振袖の袖で覆うとクスクスと笑う。



「どうしたの?」

布団を何枚も重ねた所に背中を預けた、母親がその声に振り返った。

胸には産まれたての赤子を抱いている。


そんな母親に物怖じしたように、少年ははにかんだ顔を向けた。

「どうしたの?」

重ねて聞かれた少年は、その筒を母親に差し出した。

「あのね、綺麗なお姫様を見つけたの」

「あら」

少年から筒を受け取った母親は、目に当てたが、一瞬戸惑った顔をした後、微笑んだ。

「残念だけど、お母さんには見えなかった。

きっとお利口なお兄ちゃんにだけ見える魔法がかかってるのね」


「魔法?」

少年が首を傾げると、母親は手招きして側に来させると、赤子を布団に下ろし、少年を抱きしめた。

少年は、その甘く香る乳の香りに驚いて母親を見上げた。

だが、母親が優しく頭を撫で始めると、安心したようにそっと胸に頭を預けた。

「そうよ、不思議な魔法」

「じゃあ、ぼくがもっとお利口になったら、お姫様とお友達になれる?」

「そうね」

母親は少年の頭に頬を寄せると、ゆっくりと揺れた。

「そうね、きっとお友達になれるわ。

だってあなたは、もう十分にいいお兄ちゃんですもの」


少年は幸せそうに目をつぶった。





少年はその遠眼鏡に夢中になった。


なんと不思議なことだろう……


まるで目にあてれば、微笑む美しい姫君を見ることができる。


いつかきっと

一緒に遊んだり、話をしたりできるに違いない。


御伽噺おとぎばなしの世界に住む幼い少年はそう信じた。


(きっと必ず、僕が助け出してあげる。

そして僕のお嫁さんにしてあげる)

絵本のように、きっとそうなる。


それは少年の淡い初恋だった。




あたかも無声映画を観るように、淡々と姫の穏やかな日々が筒の奥で繰り広げられていく。


その微笑む姫を見つめるだけで、少年の心は満たされていた。


しかし


時が経つに連れ、その姫の微笑みに翳りが現れ始めた……

瞳は伏し目がちになり、憂いが漂うようになった。


少年は戸惑った。


なぜ、あんなに楽しそうだった姫が、つまらなさそうにしているんだろう。


なにか自分にできることはないのか……


少年の胸は傷んだ。

切なくて憂鬱な気持ちになった。


見れば辛い……


見るのが怖い……


少年の興味は、姫の痛々しさを気にしながらも、次第に近所の友達と遊ぶことに移っていくのを押し留めるのは難しかった。



更に尋常じんじょう小学校から上の学校に進学する頃になると、筒の存在すらも忘れ果ててしまった。


その遠眼鏡は少年の机の引き出しの奥の暗闇に取り残され、じっと静かに時を過ごしていた。


その間に時代は急速に移っていき、少年の境遇も急激に変化していった。




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