第5章 諍い


「あら、あなた。何の御用かしら」



 居間のテーブルの前にゆったりと座っていたのは、薫子だった。



 テーブルの上には、イギリスから取り寄せた花柄のティーカップに入った紅茶が、果物のような芳醇ほうじゅん香りを漂わせている。


そして、ティーカップとお揃いの、ティースタンドには、スコーンやキュウリのサンドイッチ、ペストリーにチョコレートなどが積まれている。


 それ以外にも銀のトレイの上には、サラダやローストビーフなどが置かれた皿が所狭しと並べられている。


自分の妻のはずだが、まるで他人を見るような……

いや、それ以上のよそよそしさを感じる。


女との心が弾むようなひと時を期待していた分、裏切られたような、苦々しいものが湧いてきた。

その上、その中に潜む後ろめたさが、反対に自己弁護の理不尽な怒りの炎をかきたてた。



(いつもいない癖に、居てもらわないと困る時にすらいないのに……)


 松村の気持ちを知ってか、知らずか、薫子は松村の方を一瞥いちべつした後は、素知らぬ顔でご馳走をつまんで口に運び、侍女たちに


「お菓子所かしどころにあれはないか」

 だの

御膳所ごぜんしょにあれをつくらせて」

 と命じている。


 侍女たちも

「そんなに召し上がらせば、お腹がびっくりあそばします」

 だの

「おまわりの食べ合わせが、いかがにございましょう」


 小言を言いながらも、嬉々として言いなりになっている。

よくある話だが、何でも二歳だか、三歳の頃に薫子は恐ろしいほどの大病をしたらしい。

松村から見れば、それの記憶が薫子への過度の甘やかしになっている気がする。




そもそも、遠慮なく口に運んでいるご馳走を食べられるのは、松村のお陰だろうに……感謝の思いなど、微塵みじんも感じておらぬ様子だ。


侍女たちもそれにならって、松村がそこにいる事すら目に入っていないように振舞っている。


「先日はどうしていたのですか。

外せない舞踏会があるので、必ず用意をして待っているように貴女の侍女に申し付けて置きましたが」


 期待を裏切られた恨みのような気持ちが、声に苦い物を滲ませた。


「そうね。それは悪かったと思っていますのよ」


 薫子は松村の方を振り返ると、アーモンドのような目を見開いて、少しだけ低い口調で言った。


「ええ、こうも松村の事を無下むげになさるのなら、少し考えなければなりませんね」


 薫子は、恐縮するどころか、鈴を転がすように楽しげに笑った。

 まるで上等なジョークを聞いたように……

 それから、白く細い指で、小さなタルトをつまみあげると、形の良い口の中に入れた。


「薫子さん。わかりませんか。

脅迫するようですが、このままではご実家に帰って貰うと申しあげているのです」


「あら、まあ」

 お愛想のように眉毛を釣り上げて、薫子はそう言った。


 その合間にも、クロテッドクリームをスコーンに乗せて味わうと、紅茶を口にし、ブランデーの香りのするパウンドケーキを口に入れた。


松村は、苛立ちを噛み殺すと、大股に近づき、また別の果物を乗せたタルトをつまみ上げた薫子の手を抑えた。


(まるでケダモノじゃないか)


 あの女の、優雅に砂糖菓子を少しだけつまむ様子を思い浮かべて、次から次へと口に運ぶ薫子に吐き気すら覚えた。


「何をなさいますの」

 薫子は大きな目で松村をねめめあげた。


「あなたが召し上がっているそのアフタヌーンティーも、そのお気に入りのティーセットも、どこの財布から出ているのかよくお考えなさい。

貴女が松村家の女主人としての責任を果たさないのなら、松村家の富を自由に使う権利は失われると分からないのですか」


「おやまあ、大上段に構えて申されます事。それはそれとして」

 薫子は目を猫さながらに細めた。

「お離し頂けませんこと」



 すっと怒りすら冷えて、凍てつく氷が全身をおおって行くのが自分でもわかった。


「もういいです。薫子さん。貴女には愛想がつきました」


 松村は吐き捨てるようにそういうと、薫子から手を離し、そばに置いてあったナプキンで手をぬぐった。

 その松村の仕草に薫子は眉毛を釣り上げた。


「出て行きなさい」


 そう言うと、薫子の侍女たちに命じた。

「奥様の荷をまとめなさい!」


 侍女たちは慌てた顔をして、薫子を見たが、薫子は全くそ知らぬ顔をして、またテーブルの食べ物をつまんでいる。


「お、御姫様おひいさま

 流石に老女が、薫子に声をかけた。


「良いんじゃなくて」

 薫子はこちらを振り向きもせず、ふふっと笑った。


「それも良いんじゃないかしら」


 その様子がまた、冷めた物に変わっていたはずの、松村の怒りに火を点けた。


「持ってきた物だけを荷造りしなさい」

「え、何ですって」


 途端に薫子は、松村をキツくにらんだ。


「松村に来て貴女は、それに相応ふさわしいことなど何一つして居ない。

ただ松村の金を楽しんだだけではないですか。

一年間、楽しめただけでもありがたいと思うことですね」


 どうやらここが弱点らしいと気がついた松村は、冷たく薫子を見下ろした。

今まで抑えていた怒りが、出口を見つけて噴き出していく。


「何一つ、持って出ることを許しません。一つでも欠けていれば、賠償金を請求します。その代わり」


 冷たい笑いを口元に浮かべて、松村は怒りに震えている薫子を愚弄ぐろうした。


(いい気味だ)

自分でも知らなかった、冷徹な自分が現れて、金という権力を背景に、今まで傷つけられた分だけ、いやそれ以上に相手を傷つけ、愚弄しようとする。



「私の言う通りにするなら、一年の貴女の賃貸料として、それなりの金を貴女の家に差し上げましょう」



 思いがけず、薫子の軽やかな笑い声が部屋に響いた。


「何もそんなものは、要りはしませんわ。全く金、金といやらしい!」


 薫子はあごを上げて、松村を睨みつけた。


「お金さえあれば、なんでもできるおつもり?」

 白く人形のような手を振り上げた。反射的に松村は薫子のそれを取った。


「誰が主人か、分かっておられないようですね」

 冷えた怒りというのは、理性をも凍らせるのか、松村は薫子を椅子から引きずりあげた。


少なくとも金という薫子には無い権力を振りかざして圧倒しようとしたところが、それすらも否定された松村は完全に逆上していた。



「思い知って頂きましょう」



薫子の侍女たちが悲鳴をあげて、止めようとするのを松村は振り返った。


「出て行け!さも無いと薫子に怪我をさせるやもしれんぞ!」






「一つだけ」


 薫子はベッドの上で天井を向いてそう言った。

「一つだけ、思うものを持って出る事を許してくれないかしら」


 薫子は美しい顔にアンニュイな表情を浮かべて、松村の方を振り返った。

 白い陶器のような腕を伸ばすと、隣に横たわる松村の裸の胸をそっとなぞった。


まるで彫像のように隅々まで完璧な裸体を一枚の上質な絹の布で隠すと、望まぬ情事の後なのに、まるで神聖な女神像のように見えた。


蹂躙じゅうりんした筈が、自分の矮小わいしょうさを思い知らされた気がして、松村はため息をついた。

(所詮……私はこの程度の男なのだ)


その意気消沈した松村の暗い顔に、薫子は微笑みかけた。


「そうね、私、悪い奥さんだったわね。悪かったわ。

でもね、私なりに愛してたのよ。

だから、あなたの思い出にあの洋燈を頂きたいの。

それくらい良いでしょう。ねえ、あなた」


 松村はそっとまたため息を押し殺した。

形ばかりとは言え、自分の妻なのに罪悪感すら感じる。


「お好きになさい」

 松村は、静かに息を吐いて起き上がると、服を手早く身に付けた。



惨めで、後悔だけがじわじわと心を浸す。


(良いことがあるなんて嘘じゃ無いか)


寝台の横に置いてあるあの洋燈が目に入った。


(あの女に合わす顔が無い)

松村は泣きそうになりながら、そっと洋燈の縁をなぞった。


クスリ


誰かが笑った気がした。

振り返ると薫子は寝台に起き上がり、絹のローブを羽織り、髪の毛を梳かしている。

松村など心の片隅にすらなさそうな様子だ。



(私はどうしたらいいんだ)


しんと静まった薄暗い部屋の中で松村は洋燈に尋ねた。


(何か手に入れたいのなら、何かを手放さなければならない)

あの店主の声が蘇ってきた。


侍女達の縋るような目を振り切って、薫子の居室から畳廊下へ小走りに走る。


「あのひとを手に入れられるのなら、私は喜んで何でも手放そう」


松村は決意で顔を白くして言った。





逃げるように自室に戻ると、自分の寝台に寝転がった。


情けない……


あんなに浮かれて帰ってきたのに……


松村は今までの自分の不甲斐ない人生をつらつらと思い出した。


いつも、いつも言いなりで

恐れて……



何一つ、思い通りなんて出来やしなかった。

しかしそれは、自分が……


手に入れようとしなかったから?




(それじゃあ)

ふっと眼の前に見たこともない美しい西洋の少女の顔があった。

矢車草のような瞳で、松村を見つめて問うた。


「私と取引をしない?」

「取引?」


「たいしたことじゃないわ。

貴方は愛する人を手に入れる。勿論、お金にも困らないわ。

生活には大事なものですもの。

その代わり、一つだけ、約束して欲しいの。


それはね」


少女は松村の耳にそっと囁いた。


「え!」


松村が飛び起きると、そこは勿論自分の部屋だった。

「何だ……白昼夢でもみたのか」





不思議なことに、不安が消えて硬い決意が胸に残っていた。



「私は……あの姫を妻にしたい。

それが出来るのならば、何を捨てても未来永劫、後悔はしない」

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