第4章 深まる時


 「なるほど、奥様の代わりに違う女性がおられると」

店主はニッコリと微笑んだ。


「あ、いや、そう言われると、何だか違った風に聞こえますが、そんなやましい関係ではないのですよ」

松村は顔を赤らめて大急ぎで手を振って否定した。


「そうおそらく妻の遠縁の姫君でね。

大層気の毒な身の上の方なのです。

……とても健気な女性でね」


松村は大きな手を膝の上で組んで、ふっと微笑んだ。

最初会った時よりも表情が柔らかく、そして悲しげだ。


「なるほど、同情をされておられるので御座いますね」


「ええ、そうです。とても気持ちの優しい、良いお嬢さんなんでね。

幸せになって頂きたいと思っております」

「なるほど、それで良い殿方を紹介して差し上げたいとお思いなので御座いますね」

店主が顔を覗き込むように言うと

「えっ」

松村は目を見張った。

「ええ、ああ、そうですね。ええ、そうなりますね。ええ、ゆくゆくは……」

俯くと、小さな声で呟いた。

「そう言うことになりますね」


「松村様がお幸せにして差し上げるという訳には、参らないのでございますか」


その言葉にハッと松村は顔をあげた。

しかし、すぐに大きく首を振った。


江戸時代までの流れで、身分の高い男が側室を蓄えるというのは、許されている時代である。

「いえ、そんな。私程度の者がそんなことは出来ません。

妻の実家がなんというか……

それにあの方に、私の妾になってくれなど……」


「なるほど。それでは八方塞がりでございますね」

店主は、もっともらしく困った顔をして頷いた。


「ええ」


疚しい関係ではないといいながら、うっかり心の内を露呈ろていしているのにも気づかず、松村は深く項垂うなだれた。


店主はたんまりと牛乳ミルクを貰い、満足した猫のような顔をして笑った。

「でも、大丈夫にございますよ。必ず、良い方向へ参ります」

「ああ、そうですね」

松村は店の床を見つめたまま、薄く笑った。

店主は、松村の方に体を傾けた。


ざわり


店の奥から薄暗い古めかしい闇が、揺らいで立ち昇ってきた。

それは見えない煙のように、足元から湧いて、知らないうちに二人を包み込んだ。


まるでうつつと別の、時の止まった世界に誘うように……


「いえ、お愛想ではございませんよ。ほんとの事にございます」


クスクスと薄闇が笑う

潜んだ瞳が獲物を見つめる


「おや、疑っておいでにございますね」


まるで催眠術にでも掛けるように、店主は松村の耳に口を寄せて低く囁いた。


「ただ物事には代償が必要にございます。

何か得る為には、何かを手離さなければなりません。

それを松村様がおできになるかどうか」

「え……それはどういうことでしょうか」

松村は顔を上げると、引き寄せられるように店主の方に顔を傾けた。

「それはあの姫を……この私が……」


ギ……


 その時、表の回転ドアが回って、色の浅黒い男が入ってきた。


「おや、野風おかえりなさい」

店主がその男に声をかけた。


ハッと松村は夢から覚めた顔になった。

回転ドアから入ってくる爽やかな風が、薄闇を払って、そこは当たり前の骨董屋の店内だ。

(あ、ああ、私は何を……)

ぼんやりとこちらを見てる松村を振り返った店主は、ニコリと笑いかけた。


「大丈夫でございます。近々良いことがございますよ」




ある日、松村は仕事を早く終えて、昼頃帰宅した。


前の晩のことである。

いつもの茶飲話の流れで百貨店の話がでた。


そう「竹中工務店というのは、元は織田家の普請奉行だったそうですよ」

そういうと女は感心したように「なんと!」と目を丸くした。

「左様なこと!」


その女の驚いた顔に気を良くした松村は

「あの銀座の百貨店の松坂屋というのも、織田家の家臣の伊東蘭丸の裔なんですよ。

織田家はパッとしませんが、家臣はなかなかのものですね」

嬉々として知識を披露した。

すると、女は松坂屋に行ってみたいと言った。


あの女の目を丸くして驚いたさまを思い出すと松村は心が踊った。

自分の浅学でも、女は感心してくれる。

何だか、そんな風に感心されると自分に自信が湧いてくる。

それは、女をもっと喜ばせたいという気持ちに繋がって行った。


(女を伴い銀座で買い物をしたらどうだろう)

思いついた途端、女をエスコートしながら、銀座をそぞろ歩く自分の姿が浮かんで離れなくなった。

きっと「このような場所はわらわは初めてじゃ」

目を丸くするに違いない。

「これはなんじゃ?」

色んな物に興味を示して、松村は説明に追われるかもしれない。

「なんと、松村殿はよう知っておられる。大したものじゃ!」

最後には頬を染めて、そんなことを言うのではないか。


そう想像すると、もう自分でもどうしようもなく、心が浮き立ち、仕事が手に付かなくなってしまった。


(どうしたのだ!しっかりしろ!)


自分でも、自らを叱りつけるが、どうにもこうにも、女の顔がちらついて、いても立っても居られなくなった。


(嗚呼、このままでは大きなしくじりをしてしまいそうだ……)


 れてもらったお茶をこぼし、秘書が持ってきた書類の違うところへハンコを押した挙句に、心配して様子を見にきた父親の顔の上に、女の顔が浮かんで顔を赤らめ、絶句させてしまった。

「今日はおかしいぞ。もういいから帰りなさい」


 そう言われると、もう心は家へ飛んで、女の笑顔しか考えられなくなってしまった。

(早く!早く帰らなきゃ)


健康と真面目さだけが取り柄の二代目の珍しい行動への、事務員達の好奇心に満ちた目付きも、父親の不審そうな顔も気にならない。

スキップをするように、小走りで走り出て、馬車に飛び乗った。


(そう、そう、松坂屋で何か二、三買い物をして、甘い物でも一緒に食べよう)

しかし

(人混みは得意ではないと言って居た)

 松村は女が断るかも知れないと思うと、急に胸が締め付けられるように痛みはじめ、思わず胸を押さえて呻いた。


馬車を駆っていた御者が、後ろの座席の若旦那の呻き声に振り返る。

「大丈夫でございますか。若だ……」

「あ!」

(そうだ)

御者は突然、上気した顔を上げ、晴れ晴れと目を輝かせる若旦那にビックリして、かけていた言葉を飲み込んだ。


彼女は叔父の好きだった西洋歌劇オペラを観てみたいと口にした。


「是非、一緒に行きましょう」

 松村がそう言うと、女は目を輝かせた。

「誠か、松村殿。わらわに観せてくりゃるのか」


 女は身を乗り出して、松村に問うた。

 松村が胸を叩いて肯定すると、頬を赤らめ「嬉しい」と何度も言った。


(そうだ、に行くのに要るものを揃えようと誘おう)


松村は、自分の思いつきに満足して大きく頷いた。


(観劇に行くのに、どうしても必要なのだと言えばいい)


あの初めて会った時のドレス姿の愛らしかったこと!

高々と髪を結い上げた首筋の、細くなめらかな白い肌。その肌を薄紅色の染めて恥じらうあの姿。


ほう……


松村はうっとりと目を閉じて、長いため息を漏らした。


(流行の先端のドレスを作って差し上げよう)


御者は、いつもは穏やかな微笑みを浮かべてどっしりと構えている若旦那が、百面相ひゃくめんそうをするように天を仰いで嘆息したり、ハッと浮き立った顔をして鼻歌を歌いだすのを、薄気味悪くチラチラと見た。


そしてまた……


「はっ!」


松村は顔を暗くした。

(そんな物は欲しがらないかも知れない)

どうも西洋ドレスはあちこちが痛くなるらしく、せっかくの観劇が辛いものになるかもしれない。


(嗚呼どうせ、いらないと言われるに決まっている)


「あ!」

(そうだ!)

着物ならあつらえてもいいと言うかも知れない。


(あ、あ、そう言えば)

 孔雀の羽根の扇子をかなり気に入っていたようだった。

彼女のために新しく取り寄せて、贈ったら喜ぶんじゃなかろうか。


 松村の心は、スキップするように弾み始めた。

(こんな気持ちは、小さい頃父親と虫取りに行った時以来だ) 


(若旦那はお疲れなのだ)

御者は、冷や汗をかきながら、「自分は何も見なかったし、知らない」と言い聞かせて、前を向いた。



「まだ、家に着かないのか」

松村は、御者に声をかけた。


そんな事は雇われて以来言われたことの無い御者は

「あい申し訳ございません」


そう言って慌てて馬を急がせた。

 

松村はウキウキと薫子の居室のドアを開けた。

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