美しき世界
碧川亜理沙
世の中は知らないことであふれている
『世の中は知らないことだらけだ』
師匠はよくそう言っていた。
小さい頃はその言葉の意のままに受けていたけれど、師匠と同じ立ち位置についた時、本当に世の中は自分の知らないことだらけなのだと知った。
次から次へと知りたいという欲は溢れてくる。だけども、短い人間の生では全てを知ることができない。あくまでその膨大な量の一部しか知りえないのだと知った。
その頃直彦は、奉公先で励んでいた。その奉公先にふらりと現れたのが師匠であった。
直彦の奉公先は旅人の宿屋となっており、多くの人々が出入りをしていた。仕事量はまだ小さいということであまり多くはなく、他の兄弟に比べて自由な時間は割と取れた。といっても、それほど長い時間ではないので、遠くに遊びに行くなどはできない。
その頃の直彦の楽しみといえば、親方が使い古した紙やお菓子の包などをもらい受け、そこに絵を描くことだった。描くといっても、そこら辺にある草鞋とか猫や建物を描くだけだ。だけどその時間は直彦にとってとても楽しい時間だった。
多分、それが直彦の命運を分けた。
「そこのガキ、俺とこい」
数人いる子どもの中で、直彦が呼ばれた。
宿屋の親父たちの間でどんな話が交わされたのかは知らない。ただ案外あっさりと決まった気がする。直彦が孤児だったのもあるだろう。
あれよあれよという間に、直彦は、師匠と共に行くこととなった。
師匠はいわゆる「写絵」ということをしているらしい。風景や人物などをそっくりに描き写すのを生業としていると聞いた。
最近、よその国から「写真」と言われる、目の前の景色を難しい手法で写し出す技術が入ってきたが、まだみんなそれを敬遠している。お偉いさんなどが自画像を残したい場合、ほとんど写絵師に頼む。師匠はその道ではわりと名の知れた人らしい。
師匠はありとあらゆるところに出歩いた。自身の家はあるようだが、年に1回帰ればいいほう。ほとんど直彦を連れて各地を歩き回った。
師匠はあまり話さない人だ。それでかなり短気。直彦はことあるごとにその巻き添えを食らう。
ただ、絵に関してはとても真摯に向き合う人でもあった。1度集中してしまえば、完成するまで話しかけてもうんともすんとも言わない。そして出来上がった絵は、まるで同じものが2つあるような出来映え。性格云々は抜きにしても、直彦にとって彼はとても尊敬のできる師匠であった。
師匠は直彦に、その技術の全てを教えた。と言っても、まともに教えてもらったのは初めのうちだけ。しかも筆の種類や顔料についてだけだ。あとはもう基本的には見て学べ方針だった。
雑だ、と直彦は思ったが、その教え方は逆に直彦にとっていい方向に影響した。
もともと彼は、視ることに長けている。今まで絵を書いていた時も、誰かに教わったということはない。ただ相手をみて、ただ観察して、それを描き続けてきた。
師匠は直彦が描いた絵を見ても、褒めもしなかったしどこがダメとも言うことはなかった。
ただ一言「うん」と言っただけだ。
それでも長く一緒にいるようなると、その簡素な反応だけでも今の絵が良いか悪いか分かるようになる。嬉しいことやいい絵があった時は、少しだけ眉が上がる。小さい変化だけど、直彦はそれで絵の善し悪しを判断していた。
1つずつ歳をとり、できることも増えていくと、師匠は直彦に客を取らせた。
初めて絵を書いて賃金を貰った時のことははっきり覚えている。その時の高揚感は忘れられない。
それからは、師匠と一緒にあちこちを訪れ、師匠とは違う方法で名を広めていった。
未熟なところも多いが、少しずつ直彦自身に仕事を頼む人たちも増えてきた。
それからまた数年が過ぎ、直彦も立派な青年になった。
そんな折、師匠が倒れた。足腰が痛むらしく、遠出が難しくなってきた頃のことだ。このご時世にしては、かなりの長生きだ。
「お前に……
古巣で床につきながら、師匠は言った。
花月とは、師匠が仕事を受ける時に使っていた姓だ。その名を受け継ぐということは、その歴史を直彦が引き継いでいくということを意味する。
直彦はしばしの逡巡の後、その姓を引き継いだ。
師匠は笑った。
一緒にいるようになって、笑った顔は数える程しか見たことなかった。その中でも、いちばん穏やかな笑みだった。
それから程なくして、師匠はこの世を去った。
師匠の亡骸を埋めるまで、直彦は半ば義務的に体を動かした。師匠を土に還し終えると、両の目から涙が零れてきた。
血の繋がった家族ではない。ほんの些細の縁で一緒にいて、師の教えを受けた。愛想もそこまでいいわけではなかったし、他よりは会話だって少なかった。
それでも、直彦にとって、師匠はかけがえのない人だった。敬うべき師であり、家族であった。
孤児であった直彦にとって、家族がいないことが当たり前だったし、それを何とも思っていなかった。だが、今初めて、これが寂しいというものなのだと知った。
1ヶ月ほどは、直彦は外に出ることもなく、師匠の残した古巣にこもった。
そしていつもの荷物をまとめ、家を出た。
師匠はもういないが、花月の名は残っている。続いている。
それにいつまでもうじうじしていたら、手がなまると師匠にどやされるに違いない。
『全てを、知ることができたのだろうか』
最後の最後に、師匠がぽつりと呟いた言葉。
師匠に出会う前の師匠のことは知らない。それまでにもたくさんいろんなものを見てきて、直彦と出会ってからも多くのものを共に見てきた。そんな師匠ですら、もしかしたら全てを見ることは叶わなかったのかもしれない。
それなら、自分は師匠がみれなかった分まで、世の中を知りたい。
新たな名とともに、彼の第2の人生が始まっていった。
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