現実破壊のメタフィクション
倉田日高
現実破壊のメタフィクション
「幻想破壊のメタフィクション」
そう題された小説は、今小説投稿サイトで月間ランキング十八位の座にいる。
主人公は、異世界に生まれ育った一人の少年、トールだ。不思議な力を持つ彼は、神託で予言されていた救世主として魔王を倒す旅に出る。
だが、そのトールの力は、「自分の生きる世界がフィクションであること」を自覚することから生まれていた。
月が二つある小説世界に生きる少年トールと、コズミック石井というペンネームで活動する日本人作家――作家の思惑を超えて動き出す少年と、創造主でありながらキャラクターに振り回されるコズミック石井、それを知らず少年と旅路を共にする仲間たち、その冒険のようなものを描く。テンポの良い会話が評価を得て、とうとうランキングに食い込んできた。
と、まるで他人事のように語ってきたが、この小説を書いているのは俺だ。
コズミック石井、本名今野常義。作中の作家をことさらに俺のペンネームと同一にしたのは、ただ雰囲気のためだったが、それなりに好評らしい。
高校時代からぽつぽつと書き溜めていたが、このサイトでの投稿はかれこれ三年、大学入学からだ。最初に投稿した長編は七か月と十一日でひっそりと完結した。それから長編を二作、短編を五作投稿して、「幻想破壊のメタフィクション」を連載し始めたのは半年ほど前。
トールの冒険は、俺の処女作「蒼い世界と紅の勇者」のセルフパロディだ。カバーをかけ替えて、導き手の神の使いの代わりに俺というメタ存在を導入した。
深いキャラの掘り下げもなく、シリアスなストーリーも描写せず、一発ネタを突き詰めた。これが、俺の書いた小説の中で一番評価されている。
じわじわと伸びた人気とは裏腹に、俺は徐々にこの小説を書けなくなってきていた。
――――――――――
起きるのは午前五時。毎日更新のペースを維持するため、大学に出る三時間前には起床し、一通りエピソードを練る。授業中も使って、帰宅までには投稿できるようにしなくてはならない。
顔を洗って目を覚ますと、パソコンを立ち上げてディスプレイに向かい合う。窓の外はまだ暗い。キーボードに指を走らせると、少しずつ物語が紡ぎだされた。
トールに悪態をつかれたコズミック石井が、腹いせに小説を更新する。その更新内容で描写された通りに、トールは一人きりのところを魔物に襲われ必死に逃げ回り、最後には天から降ってきた雷に救われる。
「適当なシナリオ書きやがって!」
と文句を言うトールを描写しながら、自分が全く真顔であることに気が付く。
さして面白くもない茶番。前にもこんなエピソードを書かなかっただろうか。
「蒼い世界」の方では、ここは魔族の将軍クロノスが主人公に敵意を向ける前兆となるシーンだった。否応なしに読者の――二桁にも届かないファンの不安を煽り、伏線となっていた。
唐突に記憶が蘇り、「蒼い世界」の作品ページを開く。一ページに収まる感想一覧に、それはあった。
とうとう終盤。不吉な展開ですね。とたったそれだけのコメント。投稿した読者には、深い考えなどなかっただろう。
不意に喉の奥から酸味がこみあげてきて、俺はトイレへ走った。
胃から込み上げてきたものを吐き出して、苦い口の中を水でゆすぐ。胃液で焼かれた喉が苦しい。
外はいつの間にかすっかり明るくなっていて、もう大学へ行かなければいけない時間だ。
パソコンを畳んでスリープ状態にし、鞄に詰め込んで身支度を始める。背負った鞄の中で、パソコンはずっしりと重かった。
――――――――――
図書館の隅にあるフリースペースで、テキストエディタの余白を埋めていく。朝のような吐き気は訪れず、ただ淡々と文章を書いていた。
「おう、今野」
不意にそう声をかけられた。
昼休憩に入ったからか、図書館は徐々に賑わいだしている。行き交う学生を背景に、級友の一人が立っていた。
「単位は取れそうか?」
「まあ、ぎりぎり」
肩をすくめて見せると、彼は大げさにため息をつき、羨んで見せる。
こっちはきついぜ、毎年三割落ちるらしい、と授業の愚痴を吐く彼に付き合うため、パソコンを閉じる。その時、彼の後ろの人影に目が留まった。
ひどい猫背にくたびれたジャージ姿。黒縁の眼鏡に前髪が触れかかっている。背が高く痩せ型だが、その見た目に反して動きは緩慢だ。
男は俺を一瞥し、通り過ぎる。
既視感、というには少し違う感覚。見たことがある、というよりはそれを飛び越えて――俺はあの男を知っている、と直感する。
眉根を寄せた俺に、級友が訝しげな顔をする。だが彼は単位の話を止めないので、その感覚の正体を探ることはできなかった。
気が付いたのは、帰宅して小説を更新したその時だ。
あのジャージ男は、「メタフィクション」に登場するコズミック石井の描写そっくりだった。
――――――――――
コズミック石井は、俺の分身だ。俺を戯画化し、駄目人間として脚色しつつも、親しみを持たれる精神性に演出した。その人格は必ずしも俺とは一致しない一方で、「作者の分身である」という設定は明示してあった。
早朝、いつものように文章を綴る。
読者に対する感謝の言葉を、コズミック石井に代弁させる。作中における俺であるこの男の述べる感謝は、すなわち俺からの感謝なのだと読者には理解される。
キーを入力するたび指が震え、寄せられた感想を見て吐き気を催す、そんな俺自身のことは微塵も描写しない。コズミック石井は、あくまで能天気に小説を書き、トールや登場人物に振り回される役割を果たす存在だ。
今日の投稿分を何とか書き上げ、予約投稿をセットする。それを読み返し、何か問題がないかチェックする。
「トール、お前が冒険できてるのも読者のおかげなんだぞ。感謝しろ」
「じゃあなんでお前が偉そうなのさ」
そう言いあうくだりに差し掛かった瞬間、手が震えた。遅れて、意味のないうめき声が喉から漏れる。
読者のおかげ? 俺が俺の文章を浅薄な笑いに変えるこの作業が?
発作的にマウスカーソルが動き、そのポインタが削除ボタンに重なる。俺がボタンを押し込むその刹那、間の抜けた電子音が鳴った。
ドアチャイムだ。こんな朝早くに、NHKとも思えない。
足音を殺して覗き穴から外を見ると、昨日のジャージ男が立っていた。
――――――――――
「さて、今野常義。もう分かっているかもしれないが、俺の名前はコズミック石井だ」
さも自分の部屋のように、クッションを尻に敷いてくつろぎ、ジャージ男はそう言った。もしそれが真実なのだとすれば、この部屋がこの男の部屋であることも間違いではないが。
眼鏡の奥から俺を見つめる、その顔立ちは俺に酷似している。細かい顔の描写などしていないから、その部分は「本人」である俺に気持ち悪いほど似ているのか。
「お前、俺の小説を削除しようとしただろう」
誰も知るはずのない情報を語る男は、間違いなくただの人間ではない。
石井は身を乗り出し、俺に顔を近づけた。歪んだ鏡を見ているかのようで気分が悪い。
「それがどうした」
「まあ、分かるだろ。お前は俺なんだから」
「違う。お前が俺の一部なんだ」
「表層的な話にこだわるな」
そうあっさり切り捨てて、石井は腕を組む。
「小説を削除するな。データを消されれば、俺という存在、そして世界が消滅する」
どうやって現実に出てきたかは自分でも分からない。だが、出てきたのはそれを止めるためだということは分かる。
「だから、やめてくれ」
そう言った石井の目つきは確かに真剣だった。コメディの登場人物としては不釣り合いなほど。
「お前はそういうキャラじゃないだろう」
もっとヘラヘラして責任感がなく、脳天気な人物。それがコズミック石井というキャラクターだ。俺がそう設定し、そう動かしてきた。
こみ上げる不快感のまま睨みつけると、石井は肩をすくめた。
「気づいてなかったか。お前が思ってる以上に、俺の描写はお前に近い」
ギャグで隠しきれないレベルで、今野常義自身が滲み出てるんだよ。
淡々と言う。その言葉の塊に、頭を殴られる。
コメディとしてすら、俺の作品は破綻していた。
急激にこみ上げてきた吐き気を察してか、石井が俺の背中をさすろうとした。それを払い除けてトイレへ駆け込み、便器の前にしゃがみ込む。
「……辛いか」
知ったような口調で、俺の分身は背後から声をかけてくる。
コズミック石井というキャラクターに理解できるはずがない。勝手に動くキャラクターに戸惑っても、それをコントロールし、暴走も受け入れるだけの余裕がある人間だ。そうでなければ「幻想破壊のメタフィクション」という小説が成立しない。
「……お前がなんと言おうが、小説は削除する」
ゆっくり立ち上がってそれだけ告げる。石井が眉をひそめた気配を感じた。
「削除して何になるんだ?」
「俺が楽になる」
「それからどうする」
「俺の書きたいものを書く」
「馬鹿か」
コズミック石井はそう吐き捨てた。
振り向いて睨みつけると、男は猫背のままこちらを見上げていた。俺は視線を外し、足を鳴らすように部屋に戻る。
「なら、なんでお前は「メタフィクション」を書き始めた」
「思いついたときは書きたいと思った。今は違う」
「なんで書きたいと思ったんだ」
パソコンに伸ばしていた手を止め、思わず振り向いた。
さっきとは逆の、俺が見上げる構図。石井はすでにその答えを知っているかのような眼差しで俺を見下ろしていた。
もう六ヶ月以上前だ。
少ないフォロワーと、滅多に来ない感想通知。これまでの作品の傾向を見比べた時間。
「……受けると思ったからだ」
石井は満足した表情で頷いた。
「でも、はじめは書くことが苦痛じゃなかった。楽しんで書いていた。今はそうじゃない」
言い募る。
「じゃあ、その前に二年以上、自分の好きなものを書き続けてどうだった」
そんなことを尋ねずとも、この男は答えを知っているはずだ。だが、それを口に出す躊躇いを、男は理解しているようだった。
「……認められたかった」
必死に埋めた墓を暴き直して、「蒼い世界」の最終話を投稿したときの記憶を掘り出す。
一時間おきにページを開いては、一向に増えない閲覧者数を確認した。これまでに送られた感想を読み返しながら、そのリストが増えることを待ち続けた。
「読者受けが良い小説を書いて、フォロワーが増えれば、もっと評価されると思ったんだ。今は読まれてないだけで、本当は面白いと思ってた」
そのために心を擦り切るようにして書いて、この結果だ。自己顕示欲と承認欲求に挟まれて、身動き一つ取れない。
文字を打とうとすれば吐き気がこみ上げてくる俺には、小説なんて書けるはずがない。そう呟く。
「……結局、お前は何がしたいんだ?」
お前はもう答えを知ってるだろう。顔を伏せたまま吐き捨てると、石井は更に言葉を重ねた。
「お前は何が書きたいんだ。今、この瞬間に」
面白いと思える小説も、読者受けする小説も、書き続ければ辛いだけだ。天秤の両端は重すぎて、竿は今にも折れようとしている。
「どっちか選ぶなんてできねえよ」
なら、答えは一つだ。
絞り出すように言った俺に、石井は明快に言い切った。
それ以上、こいつは何も言わない。それでも、何を言おうとしているのか、俺には分かる。
「……俺は、自分の好きな小説を、大勢に読ませたいんだ」
強欲極まりない、醜い本心だ。現実はそう都合よく行かない。だから、少しでも読者を増やすために媚を売った。それを忘れていた。
ただ好きな文章を書くだけで夢が叶うはずがない。そんな現実を破壊するための布石で潰れてしまうなら、そのまま沈んでしまえ。
「あぁ、クソが」
口からほとばしった罵倒は、あまりに稚拙で率直だ。
小説を他人に読ませたい、そんな欲求が生まれてもう五年ほど経っただろうか。その年月が軽いはずもない。それを背負って立つ苦痛と真正面から向かい合う。
眼前の俺の分身に、俺から無意識に滲み出した俺自身に指を突きつける。
「書いてやるよ。お前を踏み台にして、最高の小説を読ませてみせる」
血反吐を吐いてでも、「メタフィクション」を最後まで終わらせる。そうやって読者を掴んで、初めて俺は小説を書けるのだろう。
石井は満足したようにうなずく。そうして、不意に大気に溶けるように消え去った。まるではじめから幻覚だったかのように。
暗転していたパソコンの画面に光をともし、映し出された文字列を睨みつける。相変わらずそれは吐き気を誘ったが、目を背ける気にはならなかった。
現実破壊のメタフィクション 倉田日高 @kachi_kudahara
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