第32話 ジェーン・ドゥ

口元には薄く笑みを浮かべ、しかしその視線は、値踏みするように絢理を捉えている。



「へいへーい、楽しんでるぅ? 楽しんじゃってる異世界ライフ?」



鈴なりの柔らかな声で、眠たそうにゆっくりと、甘ったるく紡がれる、調子の外れた言葉。


「驚いた? 驚いちゃうよねえ、わかるわかる。すごい顔してるよ? 写真撮ったげよっか? あ、駄目だいまスマホない」

「スマホって……」


理解の追いつかない頭で絢理にできたのは、誰何するくらいだった。


「貴女、誰なんです……?」

「ジェーン・ドゥ」


予め用意しておいたのか、少――ドゥはほとんど被せるように即答した。


「ジェーン・ドゥって、確か――」


本名ではない。匿名を表す語、いわゆる「名無しの権兵衛」のことである。

真実を濁す少女の返答に、絢理は恐れと警戒とを抱く。

そもそも彼女は、どうやって入ってきた。扉の開く音はしなかった。忽然と、まるで中間を削除したフィルムを繋ぎ合わせたような唐突さで、その少女は現れていた。


「怖がらなくていいよ。怪しい者では、あるけどね」

「貴女も、異世界転生してきたんですか?」


絢理に加え、既にグーテンベルクが転生を経験していることは分かっている。

他に類例者がいても、何ら不思議ではない。


不思議ではないが、なぜ絢理は彼女――ドゥに対し、こうも身体をこわばらせるのか。


「それは、まだ秘密」


ドゥは人差し指を口元に当てて、目を弓なりに細める。


「今日はね、忠告に来ただけだから」

「忠告?」

「明日。ファーデンは戦場になる」

「なっ」


不穏な言葉に絢理が目を見開くと、その表情を見るために来たとでも言うように、ドゥは満足そうに口の端を吊り上げた。


「にしても面白いもの持ってきたねえ。印刷工場とは笑ったよお」

「どうしてそれを……ッ」

「それだけだから。じゃね」


告げると同時、身を翻す。扉を開け、その姿をくらませる。

彼女は何者だ。結局、どうして女子高生の格好をしていた。どうやって入ってきた。なぜ、印刷工場のことを知っている。戦場になるとはどういうことか。

そもそも、どうして絢理に忠告を挟んできた。


「ま、待って!」


思考停止の数秒を恨みつつ、絢理は弾かれたように身を躍らせる。ソファを名残り惜しんでいる場合ではない。

扉を開けて、左右に視線を素早く走らせる。ちょうど、ドゥが長い廊下を折れて姿を消すところだった。

小さな体躯を駆り、ドゥを追う。廊下を抜け、階段を降り、宿のロビーを抜け、外へ。

往来は活気付いていた。商業都市ファーデン。様々な種族が入り乱れる街。宿はメインストリートのど真ん中に建てられている。 多くの店がたち並び、人々がひしめく中、絢理は足りない身長を補うようにぴょんぴょんと跳ねて、ドゥの姿を探すーーいた。

雑踏をかき分けるように走る。


「待って! 待ってください!」


通行人が叫びに呼応して、不思議そうに絢理を振り返る。その視線がうざったい。

肝心のドゥはと言えば、一瞬振り返ったかと思えば、悪戯っぽく舌をぺろりと出して挑発してくるのだった。


「舐めんな……っ」


足がもつれる。息が切れる。雑踏が邪魔だ。だが努力の甲斐があったか、だんだんと彼我の距離は縮まっていく。

人波に隠れていた彼女の全身を視界に捉える。もうあと一歩。

不利を悟ったか、ドゥは人混みを避けるように進路を変えた。密度は薄く、日陰が多く、より狭い道を駆けていく。右へ左へ。進路を複雑に変えながら。

だが、その選択は間違いだ。人通りが少なくなれば、絢理にとっても追いかけやすい。手を伸ばせば届く距離にまで追い詰める。


ドゥの背中を絢理の指先がかすめる。


ドゥが咄嗟に左の路地に入る。同様に絢理も路地に入ったところで、絢理ははたと、足を止めた。


「あ、……あれ?」


絢理の視界から、ドゥは忽然と姿を消していた。路地は長く狭いが、遮蔽物は少ない。身を潜められるような場所はなく、意味もなく天を仰ぐが、当然、ドゥはいない。

荒い息を何とか整えながら、路地の向こうまで抜けてみる。

活気のある往来に出る。左右を見回しても、ドゥの姿はなかった。


「もう少しだったんですけどねー……」


ぺたりとその場で尻餅をつく。意想外の邂逅と全力疾走とで、疲れがどっと全身に推し寄せてくる。

気が抜けると、露天から漂ってくる食べ物の匂いが鼻腔をくすぐり、お腹を鳴らす。

天を仰ぐ。落ち着いた頭で自覚する。

初めての街で縦横無尽に駆け回ったのだ。


「ここ、どこですかね……」


つまり、迷子だった。



<続>

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