第25話 巨龍VS印刷

「――解き解せ、エーピオス!」


魔法書士の詠唱に応じて、8,000枚の魔法陣が一斉に光を放った。

変化は眼下、闘技場の床面で始まった。

戦闘で荒らされた場石群が、豆腐のように溶け崩れたのだ。

流砂と化した闘技場が、蟻地獄の巣のようにドラゴンを呑み込む。


オルトが放ったのは、岩塊を砂へと分解する魔法だ。


通常は足をもつれさせる程度の、小さな魔法に過ぎない。

だがドラゴンを襲うのは、その八千倍の発動。

如何に巨体とて――否、圧倒的な質量をもつからこそ、その自重が仇となり、極大の流砂の勢いをさらに加速させるのだ。


――GGGGGRRRRRRRRRWWWWWWWWWWッ!!


ドラゴンが苦悶とも憤怒ともつかない絶叫を上げる。

だがそれが僅少な時間稼ぎに過ぎないことを、絢理は理解していた。


ドラゴンの背中。巨大な翼。それ自体が禍々しさを感じさせる一対の翼が羽ばたきを見せたのを、絢理は視認する。

立っていられないのなら飛んでしまえばいい。自明だ。

だが一瞬でも隙を作ることができたのは大きい。

ドラゴンは今、攻撃の手段を持たない。全力で回避を試みている。


「絢理君!」

「承知してますっ!」


オルトの要請に、絢理も鋭く返す。

ドラゴンが脚を搦めとられている間に絢理は、もう一つの包みを開けた。露わになる紙束は力の象徴。社畜OLが世界を変える事の出来る唯一の武器。


「ちょっと痛いけど、我慢ですよ」


力強く翻る巨大な翼が、闘技場に突風を生む。

息が苦しくなるほどの風勢。髪が、衣服が風に躍る。

顔前に腕をかざして風を遮りながら、呻くドラゴンを見据える。


苦しそうだと、絢理は思う。

息が出来ずに喘いでいるのは、寧ろ彼女の方なのだと。

絶大な力を発揮しながら、しかしその力に振り回されるばかりで。


タビタ・エックホーフ。強く清廉な少女を取り戻すため、絢理は紙束に足をかける。


彼女は強く。


彼女は優しく。


その笑顔は人を惹きつけ。


その覚悟は人を導く。


なればこそ――


「――こんな勝ち方、望んじゃいませんよね」


絢理は紙束を思いきり蹴り上げた。

突風に乗り、無数の魔法陣が舞い上がる。

空を埋め尽くさんばかりの紙片が、ドラゴンを囲う。


「全判2,000通し八裁・計16,000枚同時多発動――」


一息。

風にかき消されないよう、絢理は叫ぶ。

目の前で絶叫する怪異(泣いている少女)へ届けるために。


「打ち砕け、ドリフォロス・プラニトゥッ!!」


詠唱に呼応して、空が光に埋め尽くされる。

太陽の如き白光。

あらゆる影をかき消すほどの光量。

ドラゴンも一瞬、その凄絶な光に目を灼かれ、翼の動きを鈍らせた。


16,000の光全てが対象を貫く嚆矢となって、一斉にドラゴンを急襲した。


一つ一つは、ドラゴンの皮膚を傷つけるに値しない、人の領域を出ない程度の攻勢魔法だ。

だが、間断なく一斉に放たれた幾万の奔流は、神の裁きにも匹敵する。


涓滴岩を穿つ――僅かな雫も、絶えず落ち続ければやがては岩に穴を開ける。


それは誰あろう絢理自身が、昨晩証明して見せた。


GGGGGRRRRRRRRWWWWWWWWWWWッ!!


ドラゴンが悲鳴を上げる。

が、絢理の耳朶には届かない。

ドラゴンの大顎から放たれる絶叫をさえかき消す射出音とともに、光の矢は最強の怪異を容易く蹂躙した。


そして、やはり絢理自身もその威力に少しビビるのだった。



光が収束した頃、ドラゴンの姿はなかった。

眼下、巨大な怪異の代わりと言っては華奢に過ぎる少女が、戦場跡に横たわっている。

絢理とオルト、エルマはタビタへと駆け寄り、驚きに目を丸くした。

意識を失ったタビタは、全裸だったのだ。


「とうっ」

「ぐはッ」


すかさず絢理がオルトの足を引っ掛けて転倒させる。

派手に地面にひれ伏したオルトの後頭部を、絢理は何の躊躇もなく踏みつけた。


「乙女の柔肌ですからね、我慢ですよノッポさん」

「……見ないと誓うからどかしてくれないかな」

「難しいかと。個人的な制裁も含みなので」

「……」


黙したところを鑑みるに、納得してくれたか。

タビタの衣服は、ドラゴンへ変化した際に破れてしまったのだろう。

肌を隠してやりたいと思うが、廃墟も同然の闘技場には、気の利いた布などない。


と、オルトの後頭部をぐりぐりと踏みしめながら見る先、エルマが流れるような自然な動作でメイド服を脱ぎ始めた。

奇行に驚く絢理だが、すぐに得心する。


「成程、主人想いですね」

「私にできる事など、これくらいしかありませんから……」


エルマは自らのメイド服を、タビタに着せてやった。

自身が下着姿を晒す事に、一切の躊躇も恥じらいもなかった。ただ一心に主人を想ってこその行動だ。

エルマは膝をついてタビタを助け起こしながら、その頬を優しく撫でる。


「お嬢様、申し訳ございませんでした……」


唇を戦慄かせながら、エルマは主人へと謝罪を述べる。


「私が余計なことをしたばかりに、お嬢様に……こんな……」


エルマの目尻から涙が溢れる。

頬を伝って顎から落ちた熱いひと雫が、タビタの頬を濡らす。

土埃で汚れた顔を清めるかのような雫は、タビタの瞼をゆっくりと押し上げた。


「何言ってるの。全部私のせいよ」

「お嬢様……っ」


微笑むタビタの小さな声。エルマは堰を切ったように泣き出した。

エルマの頭を撫でながら、タビタはゆっくりと立ち上がる。

四肢の動きを慎重に確認する彼女は、誰の目にも満身創痍であることは明らかだ。

オーヴァンとの試合で既に疲弊していたところに、絢理による情け容赦のない攻勢魔法を一身に受けたのだ。

立ち上がれるだけでも大した気力だ。


タビタはが周囲に向ける目は、悲哀の色が濃い。


「これ全部、私のせいで……」

「いや半分以上は絢理君がぐはっ」


絢理は余計なことを口走るオルトの後頭部を改めて踏みつける。


弩級の台風が暴れたかの如く、闘技場は見るも無残な様相だった。

闘技場床は無造作に散らばった岩塊で埋め尽くされ、足の踏み場もない。

観客席は半壊し、荒涼とした風が吹き抜けるそこに活気は感じられない。


つい半刻前まで、二人の試合を多くの観客が盛り立てていたなどと、俄かには信じがたい。


「じゃじゃ馬も極まれば、宮廷騎士をさえ凌駕するか」


皮肉を放ったのは、騎士・オーヴァンだ。

彼は罅の走った重鎧を脱ぎ捨て、こちらへと歩み寄ってきていた。

彼もまた重傷のはずだが、足取りにそれを感じさせないのは騎士としての誇りか。

タビタは目を伏せ、オーヴァンに頭を下げた。


「……ごめんなさい。大切な試合を、こんな形にしてしまって」


素直に頭を下げるタビタに、オーヴァンは意表を突かれたようだった。

目を丸くし、しばらくの間、閉口していた。やがて嘆息交じりに口元に浮かべたのは、苦笑だった。


「つくづく、埒外な一日だな」


オーヴァンは抜身のまま携えていた剣を鞘に納めた。


「このような有様では、互いに満足に戦えまい。後日、改めて試合としよう」


そのオーヴァンの提案は、当然のことのように思えた。

荒れ果てた戦場、相互に満身創痍のこの状況。

仕切り直しは致し方あるまい。


誰もがそう思う中、ただ一人異論を唱えたのは、絢理だった。


「いえ。決着をつけましょう、いまここで」



<続>

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