第10話 月下の出会い

飛び降りて最も後悔したのは、飛び降りたその事実そのものに他ならない。

着地と同時、電撃を浴びたかのように膝が痺れたし、夜の街の往来の注目を集めてしまった。奇異の目に晒されて、顔が赤くなる。

黒装束も同じコースを辿ったはずだが、一体どうやって耳目から逃れたのか。


「あの野郎、ぜってー許さねーです……!」


顔を紅潮させながら固めた決意の半分は八つ当たりみたいなものだったが、とにかく絢理は走り出した。

黒装束が消えていった方に駆け出す。


まだぎりぎり、往来の向こう側に黒装束の姿が見える。絢理は往来をかき分けながら疾駆するが、しかし彼我の距離は開くばかりだ。


そもそもが運動不足だし、低身長で歩幅も狭い。そこにきて疲労困憊とあっては、走れる速度も距離もたかが知れていた。

ポケットに手を突っ込むが、空を切る。魔法陣はない。


あとはもう、恥も外聞もなかった。


「泥棒おー! 誰か捕まえてくださいー!」


息切れの合間をつきながら、絢理は声を絞りだす。

往来の関心が絢理に向けられるが、私見ても仕方ねーです犯人を向け、と胸中で恨み言をこぼす。


「誰か! だ、誰、誰か……ッ!」


人々は周囲に目を向けるばかりで、誰が窃盗犯かまでは理解できていない。

こんなものだ。

現実世界でもそうだった。

助けを求めても、実際に差し伸べられる手なんてない。

見て見ぬふりをするばかりで、不干渉を決め込むばかりで。

もういいか。どうせ上質紙数百枚と交換しただけのものだ。

いい加減疲れた。顔を上げているのも辛い。

足がもつれる――刹那、絢理の諦念を裂くように鋭い声が耳朶を打った。


「――あの黒いのがそう?」

「え?」


反射的に顔を上げると、いままさに絢理の横を走り抜けようとする者と目が合った。

フードつきの外套に身を包んでおりその容貌は判然としないが、ちらりと見えたのは、吸い込まれるように透き通った碧眼。


「答える。早く」


声質は可愛らしいが、凛とした女性の声。

絢理はすっかり心を奪われ、呆然と頷くことしかできなかった。


「あっと、はい、そうです……」

「りょ!」


応じると同時、彼女は一気に速度を上げた。絢理を置き去りにして、群衆の間を縫っているとは思えない速度で対象に迫っていく。

その速さは獲物を狩る肉食獣を思わせる。無駄や隙のない、理想的かつ最短の軌道。

ぐいぐいと彼我の距離を詰まっていく。


黒装束もそれに気づいたか、泡を食って急に軌道を変え、人通りを避けるように脇道へと姿を消した。

間もなくして、フードの女も脇道へと消える。


「――はっ」


呆然とその場に立ち止まっていた絢理は、ようやく我を取り戻した。

慌てて二人を追いかける。

汗だくになりながら、思ったように動いてくれない両足を叱咤して走る。


ようやく脇道へ入ると、既に決着はついていた。


黒装束は壁際に追い詰められ、尻餅をついていた。そして敵の喉元を掠める距離に、フードの女が剣を突きつけている。

抜き放たれた剣は、その重さを感じさせず、微動だにしない。


「とっ捕まえたわよ」


絢理の気配に気づいたか、目線を敵に固定したまま、フードの女は声を放つ。誇るでもなく、当然のように言ってのけるその声音は頼もしい。


「さ、取ったものを返しなさい」

「……」


黒装束は顔全体を仮面で覆っており、その表情は判然としない。だが、焦りは絢理にまで伝わってきた。

反応を示さずにいると、フードの女は切っ先を僅かに首筋に触れさせた。


「抵抗しない方が身のためよ」

「……ッ」


布越しでもその鋭さは十分に伝わったのだろう。黒装束がおずおずと、懐から魔導書を取り出した。


「魔導書……? 貴女、盗まれたものはこれで間違いない?」

「あ、ええ。間違いないかと」


絢理が遠目に確認を済ませると、女は切っ先を向けたまま、冷淡に告げる。


「命までは取らないわ、街を血で染めるのも嫌だしね。ゆっくり魔導書を置きなさい」


彼女の威容に当てられて、敵は指示通りにするしかない――と、絢理は思っていた。


しかし、黒装束は指示を無視したのである。

スナップを利かせた手首だけの動きで、器用に魔導書を投擲したのだ。

女に向かって――ではない。完全に油断していた絢理へ向けた投擲だった。


「わ……ッ!」


矢のような速さで放たれた本が、絢理の額を捉える。当たった衝撃に思わず悲鳴を上げると、打てば鳴るように、フードの女がこちらを振り返った。


そこに間隙が生まれた。


黒装束はバネのような動きで身を翻し、地を滑るようにしてその場を離脱した。


「なっ」


フードの女が視線を転じる。振り向きざま剣を振るうが、浅い。手を掠めたがそれだけだ。

その程度の傷に減速することなく、蜥蜴のような俊敏さで黒装束は逃走、家屋の壁を蹴って器用に登っていき、あっという間にその姿を夜陰に紛らせた。


女は追随するかどうかを逡巡していたようだが、迷った時点で機を逸している。切り替えるように息をつくと、剣を収めながら絢理へと駆け寄ってきた。


「大丈夫?」

「あたた、はい……大したことは……」


涙目で額を押さえる。手のひらを確認すると血はついていなかった。相当な痛みだったが、切ってはいないようだ。

フードの女が、絢理の足元に落ちていた魔導書を拾い上げた。埃を軽く払って、絢理へと丁寧に差し出しながら嘆息。


「ごめんね、逃がしちゃった」

「いえ、ありがとうございます、本当に助かりました」


絢理一人であれば、絶対に取り戻せなかった。

俊足と剣捌きを思い起こせば、彼女はまさに英雄然としていた。


「すみませんでした。えっと、どこかへ出かける途中だったのでしょう?」


問いを向けると、女は思い出したように両手をポンと打ち鳴らした。


「あ、そうだった。お風呂に行く途中だったの」

「お風呂?」


それはとても、魅力的なワードだった。


絢理は生前、快走印刷株式会社は板橋工場で徹夜していた。今夜を入れれば風呂には二日入っていないことになる。

化粧っ気のない絢理ではあったが、流石に女子としてそれは看過してはならない問題だった。


「そ。色々あって肩凝っちゃって。帰る前に汗を流そうと思ってたのよね」


期せずしていい運動にもなったしね、と彼女は続ける。


「それじゃあ、今夜はもう流石に大丈夫だと思うけど、気を付けて帰るようにね」


そう言って名乗りもせずに踵を返す姿は、まさにヒーローだった。

対価を要求するでもなく去ろうとする彼女の背中に、たまらず絢理は声をかけた。


「あの……」

「ん?」


振り返る彼女に、絢理は己が願望を叩きつけた。


「私もついて行っていいですか、お風呂……ッ」


風呂に入れる。汗と疲れをお湯に流してしまいたい。その願いは、切実だった。

その声音が余程真に迫っていたのがおかしかったのか、女は吹き出した。


「あはは、貴女、変な子ね」


そう言って、女は目深に被っていたフードを脱いだ。

現れたのは、月の光に反射して煌めくシルクのような金髪。

見る者に息を呑ませる美貌。

端的に言って、凄まじい金髪碧眼の美少女がそこにいた。


「いいわよ。一緒に行きましょう」

「まさかこの異世界でお風呂回があるとは……」


絢理は何かいろいろ感動して、グッと拳を握りしめた。



<続>

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