第9話 怒濤の一日は

陽も沈み、撤退を余儀なくされた二人は宿を取ることにした。

一文無しの絢理は宿代を払うことができず、オルトに交渉を持ち掛けた。協議の結果、後日オルトへ魔法陣500枚を提供することを約束し、1万レドを得た。


その通貨単位がどれほどの価値なのかを訊いたところ、どうやら1円と1レドはだいたい等価のようだ。


絢理はまず3,000レドの服を露店で購入し、その装いを異世界人のTPOに合わせた。

宿屋では一泊二日夕食付のプランに5,000レドを支払った。絢理とオルトは各々の部屋に荷物を置き、食堂に集合、夕食に舌鼓を打っていた。


食堂には、五人が横並びに座ることのできるバーカウンター、二人掛けのテーブル席が十卓あったが、ほとんど埋まっていた。エックホーフは都会のようだから、オルトや昼間のゴブリンのように商いを目的に訪れる者が多いのだろう。

談笑しながら食事を進める宿泊客の中、絢理は一人、感動に震えていた。


「めっちゃおいしい……」

「そうかい? 普通だと思うけど」


目を輝かせる絢理を怪訝に見ながら、パンを口に運ぶオルト。

焼き立てのパン、旬の野菜のスープ、川魚の塩焼き。どれも味付けはシンプルだが、深夜残業早朝出勤が当たり前の社畜にとって、その食事はご馳走に他ならない。


「コンビニとインスタントばっかりだったもので、これは沁みる……」

「こんびに?」

「説明面倒なんで省きますが、これだけでも転生した甲斐があったってもんです」

「君のいた世界は本当に過酷なんだね」


神妙な顔で同情するオルトの頭の中で描かれる日本の資本主義社会は、きっと現実よりも数倍壮絶なのだろうなと思ったが、面倒なので特に訂正はしなかった。

きっと極悪非道の魔王による支配のもとで強制労働をさせられる、そんな世界観を――


「あながち間違ってねーのが我ながらドン引きですね」

「ん?」

「いえ、何でも」


胸中に渦巻く自嘲を、絢理は温かいスープで押し流した。


「ところで、貴方のクライアントは馬車から罵倒してきた女性で間違いないんですか?」


昼間の一幕を掘り返すと、オルトは苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべた。


「そう。タビタ・エックホーフ。ここエックホーフ領の領主の一人娘だ」


急に食事が不味くなったように、フォークでパンをつつきながら、


「他の貴族からも才女と評判でね。その美貌と謹厳さもさることながら、魔法と剣技の両方に精通していて、若干十七歳ながら州主催の闘技大会で優勝経験も持つ」

「闘技大会とはまた野蛮なフレーズですね」

「そう? 結構頻繁に開催してるよ。単純に娯楽としてもそうだし、貴族が護衛を選抜するために開催することもある」

「優勝すると賞金も出ますか?」

「そりゃもちろん」

「成程。では金策に困ったら出場して無双します」

「正直、あれを見た後だと冗談に聞こえない」


大マジですからね、と頷いたところで絢理は最後の一口を食べ終える。布巾で口元を拭いつつ、問いを重ねた。


「しかしそんな才女の仕事、よく受注できましたね」

「まあ、コネみたいなものかな」

「コネ?」

「色々あってね」


オルトは言葉を濁しながら苦笑した。


「さて、僕は部屋に戻るとするかな。一晩あるし、お嬢様のご機嫌取りにもう何枚かおまけで魔法陣でも書くとするよ。君も疲れただろう? ゆっくり休むといい」

「そうですね。怒涛の一日でしたし」


自覚すると、一気に疲労が襲ってきた。

早々に眠ってしまいたい。


オルトが席を立って、空いた食器をカウンターに下げに行く。絢理は食事の載っていた皿に向かって手を合わせ、ごちそうさまでしたと素早く小声で告げてから彼を追いかけた。


明日の朝食の時間の確認等をしながら、二階の宿泊部屋へ向かう。

階段を上がったところで、オルトは右へ、絢理は左へ。


おやすみなさいと告げて別れる。


本当に怒涛の一日だった。


考える暇もないまま、色々処理しきれていないが、とにかくいまは眠ろう。

ゆっくり風呂に入りたかったが、残念ながらこの宿に浴場はない。


重い瞼を擦りながら、絢理は部屋の扉を開けた。


霞む視界に映る部屋の内装。


開け放たれたカーテンが夜風にそよぎ、そして、目が合った。


「――は?」


彼女の部屋に、招かれざる人影があった。


刹那、何かが空を裂く音。

それが投擲によるものだと気づくよりも早く、絢理は反射的に退いていた。

足を扉の縁に引っ掛けて尻もちをついたのが、結果的に功を奏す。

人影の放った何かは絢理を捉えることなく空振りした。


舌打ちの音。


全身を黒装束に包んだ人影は、小脇に本を抱えていた。

それが魔導書なのだと思い至るのとほぼ同時、黒装束は窓に向けて身を翻した。


「ど、泥棒――ッ!」


何が起きたのかをやっと理解した絢理が、鋭い声を上げる。

咄嗟に懐に手を入れ、魔法陣を掲げた。


「穿て、カリュオン!」


扉の一部に魔法が干渉、槌を形成して泥棒へ肉薄する。

が、いい加減在庫が尽きた。

彼女の発動した魔法陣は一枚きりで、頼りないたった一つの槌が黒装束を穿つことはなかった。

すらりと身を躱しながら、窓外へ躍り出る黒装束。


「か、返しなさい……ッ!」


突然の事件が思考に熱を回し、考えがまとまらない。

絢理は焦燥に任せるがまま泥棒を追う。

その小さな体躯を、窓外に躍らせた。

飛び降りざま、視界の端に逃走していく黒装束の姿を捉える。


――戸叶絢理の怒涛の一日は、まだ終わらない。



<続>

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