第4話 さあ、印刷を始めましょう!

「僕はオルト。オルト・ハウンドマンだ」

「戸叶絢理です。親しみを込めてアヤリンとお呼びください」

「遠慮しておくよ……」


簡単に互いの自己紹介を済ませ、絢理の先導で工場の敷居をまたぐ。

扉を潜ってすぐに、オルトが悲鳴を上げた。


「うわ、何だこの柔らかいの」

「いちいち驚かないでください。ビニールカーテンです。工場にはよくありますよ。防虫や防塵効果があり、品質管理のために採用してます」


のれん状にぶら下がったオレンジ色のビニールにもたつきながら、オルトは一歩を踏みこみ、また驚声を上げた。


「か、風が!」

「だからいちいち驚かないでくださいって。エアカーテンです。効果効能は以下同文です」


敷居をまたぐだけで大騒ぎとは。絢理が異世界に驚いたように、オルトにとっては工場という存在自体が得体の知れない怪異に等しいのだろう。

絢理は慣れた足取りでエレベーターへと向かう。オルトも及び腰ながら絢理を追いつつ、怖々とした目線を工場内部に配っていた。


「な、何なんだこの施設は……」

「それがオフセット印刷機です。印刷するためにまず刷版を出力するんで、三階に行きます」


業務用エレベーターに乗り込み、三と書かれたボタンを押す。扉が閉まる際にも、上昇を始めた際にも、オルトはびくりと身体を震わせた。

彼の神経は果たして持つのだろか。呆れつつ、絢理は半眼で、


「さっき魔法でこれより凄いことしてたじゃないですか」

「あれは魔法陣って仕掛けがあったじゃないか」

「これにも電気って仕掛けありますけどね」


ところで、と絢理は話を転じる。


「攻撃系の魔法陣って持ってますか?」

「ああ、大した強さはないけど……」


オルトが懐から差し出した魔法陣を受け取りながら、絢理は問いを重ねる。


「具体的にはどのような」

「土に干渉する魔法だよ。石の槌を生成して敵を襲う」

「地っ味」

「仕方ないじゃないか。仕上げた魔法陣を守るために用意してたんだから。火や水で魔法陣を巻き込んだら元も子もない」

「なるほど合理的ですね。地味ですが」


三階に到着すると、やはり慣れた足取りでパソコンの載ったデスクへと向かい、椅子に腰かける。昨日から電源をつけっぱなしだった。スリープ状態を解除する。


「まずこれをデータ化します」


宣言してから絢理は、魔法陣の描かれた紙片をスキャナーにセットする。スキャナーから光が放たれ、間もなくスキャンデータがパソコンに取り込まれた。

DTPソフトを立ち上げると、高精細な魔法陣のデータが画面に表示された。


「何だいこの箱……一瞬で魔法陣が出現した?」


背後からモニターを覗き込んでくるオルトは、感心しながら頻りに唸っていた。


「驚くのも無理ないですね。私だって仕組みを説明しろと言われたら正直無理です」

「分からない? そんな得体のしれないものを使って大丈夫なのか……?」

「大丈夫じゃないですか? 少なくともここ一年、私はこの子たちにベッタリです」


絢理は素早くキーボードを操作し、データを仕上げていく。

とりあえず菊全判に8面付。

印刷は4色の掛け合わせではなく、1色で良いだろう。

魔法陣の効果に干渉してしまう可能性を考慮し、トンボは不要。

キーボードを叩きながら、視線もモニターに固定したまま、絢理はオルトに尋ねる。


「魔法陣って、どういう仕組みなんです?」

「え、書いた内容がそのまま起きてるんだよ」

「内容? では魔法陣に描かれているのは模様ではなく文字だと?」

「うん。九割以上を文字で書いて、残り一割を口頭で補完して発動するのが一般的だね」

「成程。文字部分が家電製品そのもので、口頭による詠唱はスイッチのようなものですね」

「うん?」


意味が理解できずに首を傾げるオルトは無視して、絢理はマイペースに促す。


「他に条件は? 例えばこのモニターに表示された魔法陣に先程の詠唱を行えば、発動するのですか?」

「……いや、多分無理かな」


オルトはモニターに目を向けつつ、曖昧に言葉を濁した。


「この箱がどういう仕組みかは分からないけど、多分、血は使われていないだろう?」

「ち?」

「血。インクに血を混ぜて書かないと、魔法陣は成立しないんだ」

「……それ衛生的に大丈夫なんですか?」


現代社会では有り得ないな――絢理は苦虫を吐き出すように舌を出した。


「ごく少量混ぜればいいからね。少なくとも僕は、魔法陣の血液から感染症が広がったという話は聞いたことがないな」

「他には?」

「特にない――はずだけど」

「承知です」


素早くデータ制作を進め、RIP処理を済ませて、CTPへデータを転送。

データを完成させた絢理はCTPの設置された部屋へと転身する。


「今度はどこへ?」


絢理の後ろをぴたりとついてくるオルト。まるで親鳥を追う雛のように、その表情には不安の色が濃い。先程から、オルトにとって絢理の行動は怪奇そのものだ。


「印刷用データが完成したので、刷版を出力します」


絢理も絢理で、いちいち細かな説明はしないものだから、オルトはただ追随するしかない。

別室へ移動すると、そこには幅3メートルほどの機材が鎮座している。電源を入れて起動させてから、絢理は部屋の隅に並べられた段ボールの一つを開封する。

取り出したのは、アルミ製の板だ。大きさは一メートル四方ほどもあり、絢理が一人で持ち上げると、彼女の姿はほとんど見えなくなる。


「あ、僕が運ぼうか?」

「触らないでください汚らわしい」


手を出そうとした素人に、プロはピシャリと言い放つ。

びくりと手を引っ込めたオルトへ、絢理はへの字口を更に歪めた。


「プレートは非常にデリケートなんです。少しでも歪んだらもう使えなくなってしまうので、絶対に手出さないでください」


厳しい口調で言いつけながら、彼女の所作はあくまでも流麗だった。アルミプレートを慣れた動作で、しかし慎重に機材へとセット、呑み込ませていく。


「これが刷版。いわゆる印刷するための判子の役割をしています。フルカラーであればこれがCMYKの四枚分必要ですが、今回は一色刷りなので一枚だけです」


ふむふむと神妙に頷くオルトだったが、少しも分かっていない。

説明するうちに、機材がアルミプレートにデータを焼き付けていく。一分程度で、挿入口とは逆の方からアルミプレートが吐き出された。

完成した刷版には、うっすらと版下――魔法陣が刻まれている。

絢理は仕上がりを確認し、満足したように一度頷いた。


「じゃあこれ持って一階に降ります」

「え、また?」

「印刷って手間かかるんですよ。あまり理解されませんけどね」


エレベーターで一階に降り、リノリウムの床を踏み進み、オフセット印刷機へと向かう。

全長10メートル程もある巨大な機械が、巨獣が身震いするかのように鳴動する。その存在感は、慣れた絢理でさえ圧倒させられる。


機械自体は複雑にして精緻だが、流れそのものは単純だ。

給紙口から用紙は呑み込まれ、排出口までに四つの倉を通過していく。

山なりになったこれらの倉それぞれが、いわゆるCMYK――シアン、マゼンタ、イエロー、ブラックの印刷を担っている。

今回はシアンのみを使って印刷をする。絢理は刷版を持って、オフセット印刷機のタラップに足を掛け、立ち止まる。

眼下に目を向けると、小さな足が、頼りなげにタラップを踏んでいる。


「ここを踏み外して、異世界転生したんですよね……」


そんな些細なことで、絢理を取り巻く環境は激変した。激務に追われる日常から、魔法陣を片手に盗賊を追う非日常へ。

どちらがより、自分にとって幸福だったのだろう。


「まあ、いま答えなんて出ませんね」


面倒を嫌い、絢理は考えるのをやめた。

いまはただ、印刷のプロとして仕事を遂行する。

刷版の交換作業に入ると、壮大にして軽快なBGMが印刷機から流れ始めた。


「うわ、ななな何だ何だッ?」


突然大音量で音楽が奏でられ、オルトは身を竦ませる。すっかりオフセット印刷機に萎縮してしまったようで、遠巻きに機械を注視していた。


「刷版の交換時には音楽が流れるんですよ」

「な、なんで?」

「さあ? 事故防止とかですかね」


曲は、某考古学者が数々の冒険に出かける有名な映画のメインテーマだ。

なぜその選曲なのか長いこと疑問だったが、いまの絢理の状況にはおあつらえ向きだった。

小さく笑みがこぼれる。

異世界の冒険への船出に、これ以上に相応しいファンファーレがあるだろうか。


刷版をセットし、絢理は作業着に忍ばせていたカッターで指先を切りつける。

鋭い痛みに顔をしかめる。指先から浮き出てきた血を数滴、インクに垂らした。


傷のついた指先を舐める。

鉄の味がする。夢などではない。これがいまの、戸叶絢理の現実ファンタジーだ。


「さあ、印刷を始めましょう……!」



<続>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る