26 思案//動揺
数時間を費やし、雅樹は二人の少女と共に、メイシャンがその命と引き換えに残した贈り物の目録を作り上げた。
大人三人分で計算し、優に二週間分の酸素、同じく二週間分の食料、予備の与圧服四着、気密テントが二張り、
たった一人でひそかに運び込んだとはとても信じられないほどの充実ぶりだった。
(もしかしたら、殺された児島もこれに関っていたのかも知れないな)
雅樹はそう思い、自分が最後までそれを知らされなかったことへの疎外感でチクリと胸が痛んだ。
「おじさん、これからどうするつもり?」
ほとんど三日ぶりの食事でようやく人心地のついた薫が、空になったドリンクボトルを名残惜しそうに見つめながら問い掛けてきた。
「ああ、そうだなぁ」
言いながら彼は目まぐるしく頭を回転させていた。メイシャンから贈られた時間は少なくない。だが一方で、三人合わせてようやく一人前と言った現状では、出来ることもまた、ほとんどないに等しかった。
「無線機で助けを呼ばないの?」
「いや、この無線機では助けは呼べない」
「どうして? これ、壊れてないよね」
「そうじゃない。原因は別にある」
雅樹はそう言いながら、開きっぱなしのエアロック入り口からわずかに見える水平線を指さす。
「火星は地球よりはるかに小さな星だ。地平線は思ったより近く……せいぜい三キロかそこらしか離れていない。そして無線機の電波は、水平線の向こうには届かない。光と同じで、まっすぐしか飛ばないんだ」
「ふうん? じゃあ、三キロより向こうには届かない?」
あんまり理解していない様子で薫はうなずいた。
「ああ。外国の……一番近いのがNASAの東マリネリス基地だけど、それでも五千キロは離れている。そこと交信しようと思ったら、無線機の出した電波を火星の丸みに沿って何度も折り曲げる必要がある。でも……」
「鏡で光をはね返すみたいに?」
あごに人差し指を添えてこてんと首をひねる薫。
「そう。そのためにあるのが、火星の上空に浮かぶMサットという人工衛星だ」
「でも、壊れているんでしょ?」
「そう。Mサットは機能不全だ。それに、仮にMサットが復旧して電波が届いたとしても、向こうの通信手が敵の仲間である可能性が高いんだ。救助を求めたとしてもこっそり握りつぶされてしまうだろうし、下手に電波を出して、こっちがまだ生きていることを知られたくない。俺達に仮にチャンスがあるとしたら、相手の油断に付け込むしかないからね」
「……よくわかんないけど。それで、どうしたらいいの?」
「誰かが直接押し掛けて基地の上層部に掛け合うのが一番確実だろう」
「でも、車は全部壊れてるよ。誰が、どうやって押し掛けるのよ!」
薫が両手を拡げて悲嘆の声をあげる。それを見つめながら、雅樹もため息をついた。
唯一修復の可能性がありそうなのは崩れた穴のそばに転がっているランドバギーだが、サスペンションもフレームもすでにガタガタで、とても長距離を走れるとは思えない。何より、コンソールを銃で撃ち抜かれ、バッテリーも抜かれている。たとえ車体が修理できたとしても、肝心の動力がない。
「……それでも」
雅樹は小さくつぶやく。
「たとえ這ってでも行かなきゃ、な」
「無理よ! 遠いのよ。たどり着く前にみんな死んじゃうよ。それに……」
「それでも、だよ」
「そんなのやだ! せっかくこうして助かったのに、また……」
薫はうつむくと、手の中のドリンクボトルを見つめながら黙り込んだ。
雅樹にも彼女の気持ちは痛いほど判った。彼女の言い分に間違いはない。しかし。
「ここで座り込んでいても誰も助けてはくれないよ。運命は自分で切り開くもんだ。それに……」
彼は言葉を切ると、その先はむしろ自分に言い聞かせるようにゆっくりとつぶやいた。
「俺はメイシャン先生の遺志を無駄にしたくない。だから……」
薫がはっとしたように顔を上げた。
「大丈夫。きっとメイシャン先生が守ってくれる。俺達は絶対に助かるよ!」
そう言い切り、ぎこちない笑顔を彼女に向ける。
雅樹とて、自分の言葉に確信がある訳ではない。
だが、信じればきっとかなうような気がした。いや、自分自身、信じたかった。
祈りにも似た、心の奥から湧き出る純粋な願い。
その気持ちが通じたのかどうなのか、薫もまたかすかに微笑むと、大きくうなずいてつぶやいた。
「そうよね。これだけ大変なことがあったんだもん。あとはきっと――」
「おじさん、外の様子が変なんだけど!」
久美子がエアロックから飛び込んでくるなりそう告げた。
「え?」
「なんだか風が強くなってるみたい。それに空も曇ってきてるし。ねえ、もしかして、火星にも雨が降るの?」
「いや、まさか!」
即座に否定しながらも、彼はそんな状況に心当たりがないわけではなかった。だが、しかし。
「早すぎる!」
毎年、補給船が基地を離れてからほどなく、火星は惑星規模の猛烈なサンドストームに襲われる。
普通であればそれほど大きな嵐にはならない。だが、三年から四年に一度、極端に大きな嵐に成長し、一か月以上の長期にわたって続くことが知られている。
南半球から端を発した嵐は数日のうちに惑星全土を覆う巨大な砂嵐に成長し、最盛期の最大瞬間風速は音速の半分ほどにもなる。
いくら希薄な大気とはいえ、風に乗って何が飛んでくるか判らない。嵐の最中に基地の外に出ることは文字通り命の危険を伴う。
アズプール基地を含め、マリネリス大峡谷はその地形的な特徴から嵐はおおむね西から東に吹き抜ける。大暴風は林立するテーブルマウンテンの間を猛々しい巨龍のごとき咆哮をあげながら暴れ狂い、猛烈な砂ぼこりを巻き上げ、岩を砕き、長い間には山の形すら変えてしまう。
その間、観測隊員はまるで冬眠中の熊のようにひたすら基地にこもり、嵐の通り過ぎるのをじっと待つしかない。
だが、まだその季節には早いはずだった。
彼は二人に手を引かれるようにして何とか立ち上がると、エアロックの入り口に立って空を見上げた。だが、いつもならピンク色に明るく輝いているはずの空は、すでに巻き上げられた細かい砂ぼこりで薄暗く霞み始めていた。
「……間違いないな。大嵐が来る」
彼はその場に立ち尽くし、いまいましげに吐き捨てた。今朝の、怖いぐらい美しい朝焼けは、やはり新たな災難の予兆だったのだ。
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