毛玉をモフって世界を救え

たかむら

第1話

いつもと変わらない爽やかな朝。見慣れた居間からカウンターを隔ててつながる台所にはエプロン姿の妹とペットの猫。


「ねえ、おはようってば。どしたのお兄ちゃん」


水の音で聞こえていないと思ったのか、水を止めて朝の挨拶を繰り返す楓は小学六年生にして瀬戸家の大半の家事をこなすしっかり者だ。今朝も兄である葵が起き出すより早く朝食を作って待ってくれていた。


「声が……いや、なんでもない」


部屋を見回す葵に、楓は変なお兄ちゃん、と笑った。前足を舐めおわった猫がちらと男を見た。


「何だコイツ気持ち悪い……嬢ちゃん、飯だ飯」


得体のしれない甲高い声の最後にかぶさって、にゃあ、と猫の声が響く。


「はあい、ごはんにゃ。ソラくん食いしん坊万歳にゃ~」

「毎日カリカリ飽きちゃうぜ」


餌皿にキャットフードがカラカラと投入される音に知らない声が重なる。葵は周囲を見回した。いつもどおりの朝、聴覚だけが異常だ。


「……何か聞こえない?」

意を決して口にした葵を振り返った楓はきょとんとした顔で、正体不明の声も黙った。どこかでキジバトが鳴いている。ホーホー、ホッホホー。


「何も聞こえないよ」

「何も聞こえねえよアホか」


楓の返答にかぶさって、正体不明の声も返答してくれた。猫の耳がピコピコ動く。聞こえるはずのない猫の声が聞こえているとしか思えない。心臓がどきどきする。胸がわくわくではなく不安で動悸がしていた。猫を妹から引き離すべきだろうか。葵の指先がピクリと動く。楓は葵の様子に首を傾げてから少し意地悪げに笑った。


「もしかして闇の声が復活しちゃった?」


葵はひゅっと息をのんだ。蘇る数年前の記憶。少しばかり想像力がたくましかった頃の話。


「やめろよ……」

「えっ、ごめん。お兄ちゃん元気ないね。どしたの」


普段なら過去の恥ずかしい思い出を苦笑いで誤魔化す兄がいつもと違う反応をしてきたことに楓は戸惑い、葵は慌てて何でもないと返すのが精一杯だった。


現在、高校三年生である葵は中学時代に聞こえもしない声を聞こえると言っていた時期がある。確かに聞こえたような気がしていたが、今思えば何も聞こえていなかった。

あんなことを言っていたから、こんなことになってしまったのか。耳が変なのか。それとも、猫が。


「さっきから何見てんだ、やっぱ喧嘩売ってんのか?」


餌皿の横でちょこんと座る猫が葵を見ている。顔を逸らした。あきらかに挙動不審だ。


「何だ、おかしいぞコイツ……あれ、まさか聞こえてたりすんの?」


心臓が大きく鳴った。


「呼吸おかしいよな。変に動かないし……嘘だろ、こいつかよ」


動悸がひどい。必死に息を殺す。こいつかよ、の意味が分からない。そもそも現状の何もかも、意味が分からない。猫が一歩、前足を踏み出す。葵の体が大きく跳ねた。楓を挟んで反対側に距離を取る。


「……お兄ちゃん?」


ずっと様子のおかしい兄のことを楓は真っ当に心配している。


「何だ、警戒してんのか一丁前に。しかしカワイイ妹はお前より俺に近いぜ、いいのかよ」


猫の言葉に、じりじりと後ずさっていた葵の足が止まる。葵も、妹のことを真っ当に心配する程度には仲のいい普通の兄妹だった。


「よしよし、少し話すか。嬢ちゃんがお前の餌も用意してるから食え」


キッチンのテーブルには二人分の朝食が並んでいる。葵は無言で椅子を引いた。楓は心底心配そうな顔で、反対側の椅子に座った。空いた椅子に猫が飛び乗って座り、二人と一匹による静かな朝食が始まった。

味など分からない。緊張と動悸で吐き気すらする中、必死に平常通りの顔を作って半分ほど食べたところで猫があくびをした。


「食ってる途中だが説明始めるぞ。待つの飽きた」


我慢強さゼロか。一瞬、食事の手を止めた葵はわずかに頷いて猫の話を聞く意思を見せた。


「さて、面倒だけど選ばれたからには説明してやる。お前は世界の救世主だ」


数年前の闇の声と変わらない内容が羞恥心を煽る。必死に何食わぬ顔を作ってパンをかじった。


「俺らに寄生して操るクソ邪魔な敵がいるんだが、そいつを消す役割がお前に回ってきた。選ばれし戦士だ。お前そういうの好きだろ?」


口が渇いて飲み込みづらいパンを牛乳で流し込む。驚くほど嬉しくない。まず信じられないし、本当に戦士に選ばれたのなら怖い。一体何に巻き込まれるというのか。今、猫の声が聞こえているというだけで怖くて気持ち悪くて嫌な気分になっているというのに。


「やり方は簡単だ。まず寄生されてる奴を見つける。俺らには分からんが人間にはすぐ分かるらしい。で、見つけたら触る。触ってたら相手が死ぬ。簡単だろ」


葵は首を傾げた。判別方法が意味不明だが、その後は確かに簡単なように思えた。もしや高速で逃げる相手を捕獲したり抵抗する相手を叩きのめしたり戦闘が数時間に及んだりするのだろうか。


「ま、一度やれば分かるだろ」


椅子からおりた猫が猫用品の置いてある棚の前でにゃあと鳴く。


「ソラくん散歩かにゃ?」


完全室内飼いの猫は妹に散歩紐をつけられて散歩を行っている。丁度良く朝食を終えたらしい楓が立ち上がったので葵も慌てて立ち上がった。


「散歩、俺が行って来てやるよ」

「え、いいよ」


即答だった。一瞬たじろいだが必死に食い下がる。


「遠慮しなくていいって、たまには俺も行くよ!」

「お兄ちゃんを信用してないわけじゃないけど、外は危ないし楓の見てないとこで何かあるとかなしいから……散歩は楓が行くよ」


葵は無表情の猫の顔を無表情で見つめた。


「嬢ちゃんの愛が重いぜ……しょうがないから嬢ちゃんも一緒だ。ついてこい」


妹が一緒にいて大丈夫なのか。危険ではないのか。必死に心の中で念じてみるが猫は無反応。あちらは口を開かずにいても声が聞こえるのに、こちらは思っただけでは通じないのだろうか。

正直、世界の危機は実感がなく未だ信用できないでいるが、猫と妹だけで出かけるのは楓のことが心配だ。散歩紐を装着されている猫と楓に向かって訊ねる。


「……外は、あぶないのか」

「そだね、車は通るし他の猫も犬もいるから喧嘩になる可能性はあるし、だから慣れてる楓が行くよ。どしたの?」


怪訝そうに答える妹に抱かれた猫のほうも葵の意図を汲んで答えた。


「嬢ちゃんもお前も危険はない。強いて言えば俺が危険かもしれないが散歩してたって家の中にいたって似たようなもんだ」


ソラと楓の返答に頷き、葵は腹をくくった。


「昨日、猫の散歩動画を見て楽しそうだったから。一人じゃダメならついてきてほしい」


嘘だ。猫を嫌いではないが、積極的に動画を見るほどの熱意は無い。兄の猫に対する無関心を良く知る妹は、兄の好意的変化に破顔した。


「お兄ちゃん様子おかしいと思ったら、そっか動画かぁ。ハーネスつけて散歩する人はまだ少ないもんね。じゃ、まずハーネスのつけ方から練習ね!」


急に元気になった楓は今つけた猫の胴輪を外し、葵に手渡した。マジかよ。と呟いたのは葵ではなくソラのほう。猫の表情は分からないが、目が死んでいる気がした。


「道具の構造理解してないだろ馬鹿かオマエ! 腹さわるな引っ掻くぞっつーか引っ掻いた! 悪いな本能には勝てねえんだ!」

「痛い! 散歩行きたがってたのコイツなのに何で嫌がるんだ……!」

「ソラくん賢いからお散歩にハーネス必要なのわかってるよ、ソラくんゴメンね、おなか嫌だったね、我慢してね。ソラくんも頑張ってるからお兄ちゃんも頑張って。初めてにしては上手だよ」


猫の言葉が届いているのは葵だが分かりあえているのは楓のほう。葵は少し落ち込んだ。ウチの妹は猫博士か。そもそも、この妹は他人を気遣うことが得意過ぎるのだ。


数年前に闇の声のせいで少し周囲から浮いていた時も、冷静になって過去を消し去ろうとしている時も、乗り越えて笑い話にできるようになった時も、受け入れてくれていた。

面と向かって言うことはないが感謝している。楓の可愛がっている猫のソラだからこそ喋って気持ち悪くとも我慢して話を聞いている。そこらの野良猫だったらとっくに追い払っている。


何とか胴輪を装着して、車通りの少ない道を選んで歩く楓とソラの少し後ろをついて歩く葵は既に疲れ果てていた。電線に並ぶ雀がチュンチュンと会話をしているが声が重なりすぎて言葉の判別がつかない。世間はこんなにやかましいものだっただろうか。

ついには散歩中のトイプードルにキャンキャン吠えたてられた。楓がソラを抱き上げようとしたが葵のほうが近かったので先にソラを捕獲した。トイプードルのほうも飼い主が抱き上げ、互いに会釈をしながら行き違う。


「猫だ! 猫だよ! あっちいけ! ボクは強いぞ! 強いぞー!」


キャンキャン吠える鳴き声に混じって言葉も聞こえる。犬と猫という種族の違いがあるにもかかわらず、ソラと似た甲高い声で区別がつかない。鳴き声が遠のき、止んだ。


「元気なわんちゃんだね」

「そうだな」


楓が胴輪から伸びる紐を葵に渡してくれた。素早く捕獲したことで一定の信頼を得たらしい。足を浮かせるな位置が悪いと文句を言いながらもソラは葵の抱っこに甘んじて腕の中で偉そうに鼻息を吐く。


「今の暴君、何か変わったとこあったか」


変わったところと言われても、雀も犬も騒いでやかましい以外の感想はない。猫耳に顔を寄せて小声で分からないとだけ返した。


「おにいちゃん、またわんちゃんだよ」


楓が前方にいる大型犬を示す。ソラをしっかり抱えていてほしいということだろう。葵はふわふわの小さな体を抱きしめた。黒い犬は飼い主の女性にじゃれつきながら近づいてくる。


「カサカサおいしいの入ってる」

「これジャーキーじゃないよ、武蔵くんボケるにはまだ早いよ~」


苦笑いの女性が持っているのは、いわゆるウンコ袋ではないか。ビニール袋の中に餌が入っていることもあるだろうが今現在の散歩で使用しているウンコ袋と区別がつかないとは。


「カサカサおいしい……ウンコのにおい! なんで! なんでウンコ!」

「だからジャーキーじゃないってば~」


言っている内容は微笑ましいくらいだが、聞こえてくる声には違和感があった。腕の中のソラに顔を寄せた葵は小声で違和を告げた。


「あの犬、言ってることアホだけど声が低くて何か怖い……」

「それ敵じゃねえの」

「えっ」

「そいつだけ他と違うなら敵なんだろ。俺らには分かんねえけど人間には分かるらしいから」


他の犬と変わりはない。周囲の犬や人に危害を加えているようにも見えない。敵、という言葉が腑に落ちなかった。


「とりあえず触ってみろ」

ソラに促された葵は渋った。どうみても普通の犬だ。

「早くしろ、行っちまうぞ」

「……ごめん楓、ちょっと預かってて!」


突然のことに楓は困惑しながらもソラを受け取り葵を見送ってくれた。犬や飼い主の女性に嫌がられたら止めればいい。少しだけ撫でてみよう。


「毛並きれいですね~いきなりすみません、撫でさせてもらっても?」

「えっ、どうぞどうぞ。武蔵くん、きれいだって、良かったねえ」


葵はそっと犬の背中を撫でた。敵と言われていたため、牙が近い頭を撫でるのは恐ろしかった。二度、三度ほど表面の毛並を撫でたところで、急に犬が葵を見上げた。驚いて手を引く。

「ぼく!? ここどこ!? おうちじゃない!?」

声が甲高い。きょろきょろと周囲を見回す犬に離れたところで楓に抱かれているソラが声をかけた。


「お前は寄生されてたらしい。こいつは救世主だ」

「あああああ救世主ありがとう! ぼく救世主のおかげでぼくに戻れたよ!」


とびかかってくる犬に驚いて少し避けた。女性のほうも慌てて首輪を掴んだ。


「ごめんなさい、急にどうしたのかしら。武蔵くん、落ち着いて」

「はは、大丈夫です、こちらこそすみません興奮させちゃったみたいで」


女性に愛想笑いをして、互いに謝りながら離れる。戻ってくる葵に、楓は困惑顔。


「さっきの小さい犬が俺に向かって吠えてる気がして大きい犬なら大丈夫かと思って~でもダメだったな吠えられちゃったな~」


白々しい演技をしながら、葵は心の中で叫んでいた。

茶番臭がひどい!

あの犬も葵同様、白々しい演技をしているのではないか。葵の感想としては普通の犬が普通の犬になっただけだ。何も変わらない。どういうことだ。ソラは楓に抱えられているため渦巻く疑問をぶつけることもできず、悶々としたまま家に帰りついた。


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