戦争を悲観する権利
氷見 実非
戦争を悲観する権利
最近の若者には、終戦記念日が何時なのか、知らない者がいるという(そんな人は、一部であると願いたい)。加えて、或る若者は次のように言った。
「戦争の話を聞くと、悲しくなるから聞きたくない。」
成る程、それならば、小・中学校の日本史の授業中に涙を催す者が、少なからず、存在していなければ、その若者の主張に矛盾(もう少し言えば、偽善者的性格)を感じてしまうのは、私が大袈裟に考えているのだろうか。(この主張をした若者に対する、多少の嫌悪感は認めるが、、、。)私の学生時代には、日本史の授業中、居眠りをしている人はいても、泣いている人はいなかった。
確かに、戦争は悲観すべきことであり、悲観することこそ最大の抑止力となり得る、と私は思う。しかし、仮に骨折に関する知識が完全に欠如した子供が存在するとしたら、その子供は骨折の痛みを想像し、骨折を予防することが出来るだろうか。子供が骨折を嫌がることが出来るのは、実際に、骨折を経験するか、誰か(時には、小説や漫画)に、骨折に関して、よく噛み砕いて教わった後のことではないか。
ここで話を本題に戻すと、戦争について具体的(時々、生々しく)に、教わった若者だけが、『戦争=痛み』と認める権利を得るのではないだろうか。今の日本国憲法には、戦争の放棄(第九条)が含まれるので、一九四五年八月十五日以降に生誕した子供は、戦争を経験できない(経験したい、と言っているのでは断じてない)。それならば、経験の痛みよりも劣るが、口承(教育の場を含む)によって、痛みを知る以外、他にないのではないか。戦争を生き残った者から幾世代を越えて伝えられてきた痛みは、緩和されながらも、生々しさを伝えるには十分な痛みである。そして、その口承が途絶えた時には、待っていました、と言わんばかりに、戦争が息を吹き返すのだ、と私は考える。
人間は、死んでも誰かの心に残り続けるものであり、死に際にはそうありたい、と願うものである。しかし、戦争は誰からも忘れられてしまうことを、嬉々として待っているのだ。
戦争の抑止力となるのは、核でもなく政治でもなく、戦争を悲観する権利を持った者が多数派を占めることなのではないだろうか。
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