第9話 帰還 一

 す内海には島が多い。少しの気の緩みがあれば座礁する。出口には咆哮の如く、凄まじい音を立てて舟を呑み込もうとする大渦潮が幾つも巻いている。


「渦に巻かれるな。惑わずワシの舟の真後ろに着け!」


荒海を知り尽くしたトリでさえも。きりきりと眉を吊り上げ、楷を握る者たちを叱咤する。

 舟が得意でないツヌの一行は、陸路を選び、山合を抜ける道を取った。危険は五分と五分だが、ツヌのことだ。賊が襲ってくれば、即座に皆殺しにするだけのことだ、とカヅチは思っていた。

 カヅチとて、賊など小指の先ほども怖くはない。ただ---


ーいらぬ殺生はしたくない。ー


そう思っていた。

 それが、クマノで学んで、身に沁みたことだった。その頃、カヅチはまだ若者だった。

 それでも、向かってくる敵を思うさま斬り倒し、そこいらの木々の狭間に隠れて伺う年寄りや女子供は刃にはかけなかった。縄をかけ、捕虜として、クマノの長に突きつけてやるつもりだった。だが、カヅチの目論見に反し、結果として百人もの生命を失うことになった。

 原因は、クマノという土地に不慣れであるがゆえの失策だった。山深いそこは、少しでも足場を損なえば、滑落、谷底に転落して命を落とす。足許の不確かな老人、女子供を数珠繋ぎにして連行を図った結果、転落事故が相次ぎ、多くの生命が失われた。

 殺したくて殺したわけではない。それがゆえに、カヅチの心に大きな後悔を残した。イタケル、ヤツ媛、ツマツ媛の涙にも胸を抉られた。


ー何故に、幼子の生命までも奪われたのですか。

 言葉も発せぬ赤子が、あなたに、ヤマトになんの仇をなしたというのですか?!ー


 そして、一番その怒りを露にしたのは、ナダだった。涙をぼろぼろ流しながら、怒りで顔を真っ赤にして、倒れた兵士の剣を手に、ほんの5才の子供が斬りかかってきたのだ。


ーヤナを返せ!チサを返せ!ユナもハジも、みんなを返せ!ー


 遊び友達の名前だろうか---顔をぐしゃぐしゃにして必死に剣を振り回す小童が哀れだった。カヅチは、小童の剣を取り上げ------、思わず、ぎゅ、と抱き締めていた。


ー済まぬ。許せ。ー


 と、初めて詫びた。小童は、カヅチの顔をふっと見上げ、一瞬じ---と見つめると、その胸にしがみついて、泣いた。わんわんと声を上げて大泣きする小童の頭を撫で、ー済まぬ。ーと詫び続けた。泣き疲れて眠った小童をそっと床に降ろし、見上げた周囲は、驚きの眼でカヅチを見ていた。

 クマノの者達は、ナダが知らない大人にしがみついて泣いたことに、カヅチの兵士達は、カヅチが幼子をあやしたことに、驚いた。結果、カヅチがナダを引き取り、カジマで育てることになったのだ。

 カヅチが里に帰ってから一年もの間、喪に服したのは、その後悔があまりに大きかったからだ。それを見て、ナダはやっとカヅチを許し、『お父(でぃ)』と呼ぶようになった。


ー利かん気なヤツであったな。ー

 娘であり妹(妻)である今も、気の強さは変わらぬが、今は、そのむくれ顔を早く見たい。子らを抱いてにっこり笑う顔を見たい。故に先を焦ることはできない。


「トリ、渦は抜けたか?」

「おうよ。浪速津はすぐそこじゃ。」


 叫ぶ声に、トリが応じた。

 外海までは、あと一夜。だが、外海に出れば、内海とは異なる難所が待ち構えている。


「津に出たら、ひと休みじゃ。夜明けまで、皆を休ませろ。」

「承知じゃ。」


 トリが漕子達に指示を飛ばす。カヅチは、長である。兵達の束ねである。自分もトリも兵達も、無事に里に帰らねばならない。帰さねばならない。

 カヅチは舟板の上にゴロリと横になった。

 紫微星が、じっ---と自分を見ているような気がした。

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霰降る--- 葛城 惶 @nekomata28

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