『なろう系批判は許されない土壌』とは、優しい世界なハズなのだが

■さて、『四八(仮)』というクソゲーがある。やったことはないが、クソゲーである。

この事実に反対する者は恐らく、少ないだろう。


また、『プラン9・フロム・アウタースペース』という映画があるが、「史上最低の映画」とまで評されている。この映画が好きな人も、この評価を全否定する者も恐らく、少ないだろう。


しかし、小説界においては、そういったクソであっても酷評というのは余り許されてはいない。

雑誌で活躍できる辛口の小説レビュアーなんていないだろう。まあ実際、レビュアーは辛口よりも売れ行きのためには忖度する必要になるため、貶さず褒めずのレビュアーが商業にとって重宝されるのであるが。

それはさておきにしても、漫画やドラマの中でも小説界というのは『先生』と呼ばれる存在で構成された世界で描かれている。


イメージとしても、小説界とは聖域で守られている。


ただ、ゲームも映画は批評雑誌はあり、酷評も珍しくない。それは宣伝媒体と違う側面で需要と商業として成り立つため。そもそも、近年の大作宇宙戦争な映画であっても、ネットでなくとも酷評が飛び交っている。

これらと小説と比べても、批評の差はやはり明確である。


しかし、これらの批評は罵倒して、ストレスを発散するわけではない。これらの批評を参考にしてから、ゲームや映画を楽しむのも珍しくない。

『批評=罵倒』と勘違いすることも少なくはない。


最初に述べた、『四八(仮)』は作品として評価ができなくとも、クソゲーとしていまだ名前が残っている。そして、怖い物見たさでプレイされる。下手をしたら、このある種未完成の形態の方がクリエーターが望んだ完成系よりも知名度、プレイされた人数は勝っていたかもしれない。

また、『プラン9・フロム・アウタースペース』もクソさ共に多く人から別方面で評価されている。


これらは何の批評もなければ、理解もされない単なる糞でしかなかった。『批評』が合ったからこそ、クソ作品として今日にも記憶や話題に残るケースもある。


■小説の聖域化に関しては小説投稿サイトから派生したジャンル、『なろう系』にも含まれている部分がある。

ただ、小説投稿サイトというコミュニティだけに学生レベルの内輪ともいえる部分があるが。

自分も読んでいないのに例を挙げるのも変であるが、『げんしけん』、『究極超人あ〜る』なんかが内輪ネタだけで、閉鎖、モラトリアムになっているのが分かりやすいケースかもしれない。


そういったコミュニティは別の意味でも聖域としており、たとえ同じ方向性を持つ同士といえども、他者であれば介入を許さない傾向がある。

例えば、『東方警察』という、とある作品の同人活動を監視・取り締まる話もこういった背景から生まれたともいえる(これに関しては事実、虚像が入り交じったネタなのだが)。

もっとも、これらは内ゲバといってもいいかもしれない。それほど歴史は長い構造である。


そういった中で『なろう系』の聖域化は独自のローカルルールが構成されていった気がする。


それらは作品性よりもランキング至上主義、そのためのポイントとしての感想行為など、他にも短く話を完結させる物語構造など、商業ラノベとは作品としても別進化をしている。


そういったローカルルールで、ある種『なろう系批判は許されない土壌』が形成されたと思っている。

それは小説界でも批評が許されないのだから、『なろう系』作品に対する批評をする者は理解がないとする思想となり、対立構図を生んだ。

確かに『なろう系』コミュニティという多数によって面白いと認めているモノを否定されては、コミュニティ全体の批判となるから当然だ。


SFにおいても、この対立構図は長年繰り広げられている。本当に歴史的に長い構造である。


■ただ、この『なろう系批判は許されない土壌』は完全に定着して、常識と化している部分がある。


『なろう系』で活躍する作家、その読者がこの理論を繰り出して、いろいろな所で口げんか、果ては多くの目を晒す結果になるほどである。

(かくいう自分も少なからず、何度か経験、巻き込まれ、騒動に入り込んだ身でもある。本来、静観すべきが正解なのだが)


別にこれ自体は例に挙げてきった通り、過去の流れからも異常ではない。


ただ、この理論を背景も理解していない人間にも理解しろと強要して、批判されている事実に気が付かず 続ける発言が更なる波紋を繰り出していることになる。最終的には擁護的な意見に対しても、反対をする。


また『小説家になろう』では感想であっても、ネガティブなモノは許されない。ただ、過去の小説投稿サイトでネガティブな感想に疲れた投稿者のために作られた土場が『小説家になろう』と聞いたことがある。

それが余計に『なろう系批判は許されない土壌』を根付かせたのかもしれない。


これも『なろう系』に限った話ではないのは皆様にとっては分かることだろう。特にTwitterなどのSNSを活用する人達にとって。

そう、過激派環境団体やヴィーガン、フェミニストの一部などでも同じことしているからだ。


■ここ最近、漫画家や作家が打ち切り回避をTwitter上で嘆願することを見かけるが、個人の発言なのでそこには出版社や編集者の影がない。

作者自らが頼む以上、打ち切りに対して恨むべき存在がこうなると不在なのだ。当然、単純に打ち切りは売れ行きが悪いことになるのだから、読者でも一員だ。

そうなると、打ち切り回避の嘆願を見ても、誰も自分が悪いと考えなくなる。


なら、打ち切りに対して何を恨めばいいのか?


それは売れ行きが悪くしている要因であるが、作品に関わるコミュニティの皆が違うと言っているので、それ以外に恨むべき敵を作る必要になる。

そうなると、作品を批判するアンチとなる。作者、編集者、読者にとってはわかりやすい敵である。理由付けまで完璧である。それで誰もが幸せになれる。


ふと、自分はそういった部分でも対立を見かけたため、そう考えた。ただ、こういった内ゲバ的な対立もまた歴史的である。

また、ファンによって一見さんお断りにしてしまい、潰れていった作品と似ていると感じる。結果として業界は閉塞することにもなりかねない。


ともあれ、『批判は許されない土壌』とは、本来優しい世界なハズなのだが、単なる思想のぶつかり合いで批判と罵声の入り乱れる場となっている。

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