子供のいない星で
僕凸
時の終わり
仕事を終えて部屋に帰ると、みのりがリビングでソファに座ってテレビを見ている。私がドアを閉めると、こちらを向いて「おかえり」と言う。私も「ただいま」と返事をする。テレビではバラエティ番組をやっている。芸能人たちが大きな声で何かを喋っている。私の関心の
「今日は早かったね」とみのりが言う。
「ノー残業デーだからね」と私は答え、部屋に行って着替える。
みのりはテレビをつけたまま、キッチンで夕食の支度をする。いつものように、作ってあるものを軽く温めるだけだ。私はそのあいだに食器を並べる。バラエティ番組が終わり、ニュースが始まる。大きな事件は何もないようだ。幸福度についてのアンケート調査の結果とか、どこかの国で大臣が失言したとか、そのようなこまごまとした事柄をアナウンサーが淡々と述べていく。
「いただきます」
私たちはご飯を食べる。みのりの作る料理はいつもおいしい。ニュースでは専門家が長期的な不景気について案じているが、そんなことは関係なくおいしい。
「ねえ沙紀、オリヴィエ・メシアンって知ってる?」
「誰?」
「オリヴィエ・メシアン。二十世紀フランスを代表する現代音楽の作曲家」
「ねえみのり、私が音楽に詳しくないの知ってて、どうしてわざわざそういうこと訊くかな」
「一応、ね。もし沙紀がメシアンを知ってるのに『メシアンっていう作曲家がいてさあ』って話し始めたら、ちょっと嫌じゃない?」
「私は全然そんなこと気にしないけど。みのりって、そういうとこ無駄に律儀だよね」
「そう? まあいいや、それで、メシアンの曲で『世の終わりのための四重奏曲』っていうのがあってさ」
「よのおわり?」
「そう、世界の終わりってことね。まあ、原題に忠実に訳すと『時の終わりのための四重奏曲』だから、本当はちょっと違うみたいなんだけど」
「現代音楽でしかも世界の終わりって、すごいやばそうだね」
「私もそう思っててさ、あんまりメシアン聴いたことないんだけどこの曲のタイトルは知ってたから。で、今日ふとどんな曲か気になって仕事中にBGMでかけてみたのね」
「ふうん」
「そしたら思ったよりだいぶおとなしい曲で、全然仕事の邪魔にもならなかったし、むしろ心地よさがあるっていうか」
「むしろ仕事の邪魔になるかもしれない音楽をBGMでかけるってどういうことなの」
「まあ嫌だったら聴くのやめればいいだけの話だからさ。それで、あとで調べてみたら、世の終わりっていうのは世界が滅亡するってことじゃなくて、『ヨハネの黙示録』から取ってるんだってさ」
「『ヨハネの黙示録』って、ハルマゲドンとかの? それって世界の滅亡じゃないの?」
「正確にはちょっと違って、現世は終わるけどキリストの王国が始まるみたいな、そんな感じだと思う」
「そうなんだ。キリスト教のことはよくわからないな」
「私もよくわからないけど、だからこの曲っていうのは実は前向きな曲で、最後の楽章には『イエスの不滅性への賛歌』っていうサブタイトルがついてる」
「完全に宗教曲じゃん」
「まあメシアンってかなり宗教曲を書いてるからね」
ニュースが終わり、ドラマが始まる。みのりはリモコンでテレビのスイッチを切る。私たちは黙ってご飯を食べる。
みのりはクラシックとか昔のロックとか、私の知らない色々な音楽に詳しくて、ときどきこうやってミュージシャンや名曲についての逸話なんかを話してくれる。
「でもさ、現代音楽とは言うけれど、二十世紀っていうことはもう百年以上前だよね」と私が言うと、みのりは肉じゃがをほおばりながらうなずく。
「そうやって百年も二百年も『現代』っていう時代が続いているのは、なんだか妙な感じがしない? 一時期ポストモダンっていう言葉が流行ったけど、すぐに
みのりは私の話を聞きながら肉じゃがを咀嚼し、そして呑み込む。
「そうだね。二十世紀からずっと現代だもんね。それについて、二十世紀で人類の進歩はある意味終わった、とかいう人がいてさ、私は割とその論調には納得できるんだよね。それを『時の終わり』って言ってもいいかもしれない」
私たちはまた黙って、時の終わりに思いを馳せながら食事を続ける。でも二十二世紀に生まれた私たちには、そもそも時の流れということ自体がわからない。私たちにとって、人類の進歩というのは歴史の教科書の中にしか存在しない。親の親、そしてそのまた親の代から続く停滞感と閉塞感が世界を覆っていた。そして人類の歴史はもうすぐ終わる。
十年あまり前、A国が極秘裏に開発していた生物兵器が流出した。それは人間の生殖機能を完全に破壊するウイルスだった。ウイルスは非常に強い感染力を持ち、しかも感染しても自覚症状がなかった。それは静かに、しかし素早く世界中に広がっていった。A国のずさんな危機管理のために、流出の事実が明らかになるまでに一か月がかかり、そのころにはもう全人類がウイルスに感染していた。近い将来の人類の滅亡は避けられないこととなった。
私たちはそのころ小学生で、生殖機能が何かもよくわかっていなかったが、大人がみんな騒いでいるのを見て、とにかく大変なことが起きたということはわかった。でもそのうちに、世の中はあきらめムード一色で覆われるようになり、私たちは自分たちが最後の世代の人類であることを自覚しながらも、普通に育っていった。
食後にお茶を飲む。みのりはパソコンを開いて仕事に取りかかる。いつもと同じ静かな夜。部屋の中で聞こえる音といえば、時々マウスをクリックする音と、食洗機の音だけだ。
私たちがこうして二人で暮らすようになって、もう二年が経った。私は商社に勤め、みのりは在宅でデザインの仕事をしている。家事は大体みのりの担当だ。お茶を飲みながら、二年前のことを懐かしく思い出す。私たちはセクシャルマイノリティの出会い系サイトで知り合った。趣味嗜好は全然違っていたけれど、住んでいるところが近いということで一度会ってみることになった。会ってみると、お互いすごくタイプだということがわかった。特に見た目が。私たちはすぐに意気投合して、喫茶店で三時間くらい話したあとホテルに行った。体の相性も抜群だった。
そのとき私は大学四年生で、就職先も決まっていた。みのりは私より一歳年上で、実家に住んで仕事をしていた。何回か会ううちに、私が卒業したら家を借りて二人で一緒に住もうという約束ができた。二人とも静かな場所が好きなので、郊外のアパートを借りることにした。私の職場には電車一本で行ける。
ここ数十年で、世の中はセクシャルマイノリティに対してかなり寛容になったということらしい。特にウイルスが蔓延してからは、生産性がないとかとやかく言う人もいなくなった。もちろん私たちがマイノリティであることに変わりはないけれど、そんなことを隠し立てする必要はどこにもない。
その夜、私たちは寝室のスピーカーで『世の終わりのための四重奏曲』を流しながら抱き合う。たまにみのりの選曲で、こうして音楽を聴きながらセックスをすることがある。セックスに合う音楽を選ぶのには結構センスがいると思うのだが、みのりはそこのところが優れている。フリージャズでやったときなんかはすごく面白かった。
『世の終わりのための四重奏曲』は、切迫した場面がありながらも、全体として美しい響きで、肌の感度を上げてくれる。現代音楽というものを私はほとんど聴いたことがなかったが、これは悪くないと思った。クラリネットが伸ばす音に合わせて、長いキスをする。鳥の歌声を模したフレーズとともに、みのりの指が私の腰を這う。私はみのりをきつく抱き締める。長いクラリネットのソロが終わり、バイオリンとチェロが入って明るい楽章になる。体勢を変えて、互いの性器を舐める。その楽章はすぐに終わる。次の楽章はチェロとピアノのゆったりとしたデュオだ。また体勢を戻して、キスをしながら腰を動かして性器をこすりつけ合う。曲の雰囲気に合わせて、私たちの動きはいつもよりいくぶん神経質で
最後の第八楽章が始まる前には、行為は終わっている。私たちは並んで横になり、バイオリンが奏でる美しいメロディを聴いている。
「イエスの、えっと、何だっけ」
「『イエスの不滅性への賛歌』」
「そうそう。さっき思ったんだけどさ、宗教曲を聴きながらセックスするなんてやっぱり罰当たりかな」
みのりは目を閉じて、珍しく少し考えこむ。でもそれは数秒のことだ。
「キリスト教徒の人にとってみればそうかもしれないけど、私たちは純粋に音楽としてこの曲を聴いているわけで、家で音楽を聴いているときにセックスをしてはいけないっていう決まりはないわけだから、それは別にいいんじゃないの」
「そういうものかなあ」
翌朝、いつもの時間に目を覚ます。みのりは隣で静かに寝息を立てている。私はそっと起き上がり、パジャマを着て洗面所に行く。顔を洗ったあと、簡単な朝食を作って食べる。外は晴れている。ときどき鳥の鳴き声が聞こえる。メシアンは鳥の歌に魅かれており、それを採譜して、多くの曲に取り入れた。中には『鳥のカタログ』なんていうピアノ曲もある。みのりが教えてくれた。朝食のあと、ベランダに出てもう少し鳥の歌に耳を澄ませてみる。いろんな鳥がいて、いろんな歌を歌っている。私はふと、何十年かあとの、人間がいなくなった世界のことを思う。人間がいなくなっても、鳥たちは変わらず歌い続けるのだろうな。いや、邪魔な人間がいなくなった分、もっと元気に歌うのかもしれないな。
着替えて化粧をして、会社に行く支度を整える。まだ寝ているみのりのところに行って、枕の上に広がっている髪に指を通す。
「いってきます」
小さな声でそう言って、私は家を出る。
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