第46羽
ノックの音が聞こえたが、特に応える事もなく机に置いた書類を仕上げる朋世。 午後の授業は始まったばかり、体育で怪我をするにも大分早い段階で躓いた生徒だな、ぐらいに思っていると、
「失礼します」
「――!」
聴こえた声に素早く立ち上がり振り向く。 もう理由なんてどうでもよくなっていた。 ドアが開き、姿を現わすだろう人物がわかっていたから。
そして、確信していた少年の姿と、その後ろに見覚えのある女子生徒が視界に映る。
「灰垣くん、どうしたの?」
思わず “空くん” と言わなかったのは女子生徒が居たからだが、元々学校では “灰垣くん” 、空は “澄田先生” 、と呼ぶ話にはなっている。
(空くんの幼馴染と来た子……)
放課後に勇と来たので印象的だったのもあるが、なにより愛里本人の容姿が飛び抜けていたのが強く残っていた。
「クラスメイトの加藤さんが体調が悪くて、付き添いで来ました」
「そう」
空に付き添ってもらった設定の愛里は朋世に近づくと、
「すいません、ご迷惑おかけします」
丁寧に挨拶をする愛里、だがその後、
「先生はいつも立ち上がって入り口を見つめて生徒を迎えるんですかぁ?」
「っ……」
言葉尻を丸めて、挑発するような口調で話す愛里。 保健室に入るなり全開の小悪魔は、更に追撃を開始する。
「それとも、聞き覚えのある声に反応したとか?」
意味ありげな声音で問いかけると、それを聞いていた空が口を開く。
「偶々立ってたからでしょ?」
「空くんは黙ってて」
開いた口を強制的に閉じさせられた空。 その様子を見て、朋世は呆れた声で話す。
「……彼女、大分元気そうだけど」
当然の反応だったが、愛里は急に膝元で手を組み、下を向いて身をよじりながら、か弱そうに話し出した。
「そんな事ないです、彼に泣かされて目が真っ赤だし……」
「………彼」
彼、それはどういった意味での彼なのか。 瞬間、朋世の頭の中に考えたくない関係が浮かぶ。
(確かに、明らかに泣いた後……)
「仲直りしたんですけどぉ、具合悪くなっちゃって」
「……とにかく、あなたはベッドで休みなさい」
朋世に促され、「はーい」と病人らしくない返事をして、愛里は仕切りの奥に消えて行った。 同室に愛里が居るとはいえ、見えるのは空と自分だけになると朋世はさっきまでと違う、切ない女の顔になって空を見つめる。
空は携帯を取り出し画面操作を始める。 それが終わると朋世に視線で合図を送り、それに気づいた朋世は自分の携帯を机から手に取った。 そして届いていたメッセージを開けると、
『友達を傷つけてしまいました。 また朋世さんに頼ってすいません。 お願いできますか?』
メッセージを読んだ朋世は、穏やかな表情で空に目を合わせ、微笑みながら応えた。
「はい」
立場的に朋世が敬語はおかしいが、空は微笑みを返し、
「よろしくお願いします、澄田先生」
そう言って保健室から出て行った。
その背中を見送る朋世の熱を持った瞳、それを覗いていた愛里は、疑念を確信に変えてベッドに戻る。
(頼ってくれてありがとう。 あの子が友達で、良かった……。 でも、やっぱり―――朋世がいいな)
一人教室に戻った空は、授業をしていた教師に謝罪をして席に戻った。
――――そして放課後。
心配そうな真尋に伝えられるだけの言葉で事情を説明し、空は様子見をしていたのか、午後から近寄って来なかった光昭に「一緒に帰ろう」、普段と変わらぬ様子で声を掛けた。
断るのも不自然と思ったのか、愛里から何か伝わっているかいっそ確認する為なのか、光昭はそれに応じ、二人で駅まで帰る事となった。
―――その途中。
ここまで何気無い雑談を交わして歩いていた二人。
もう駅までの道のりも半分に差し掛かった時、
「常盤くん」
その空気を一変させる声が光昭を怯ませる。
「……なに?」
勿論光昭も構えていた所はあったが、明らかにいつもと違う空の声色に自然と足が止まっている。
空も遅れて足を止め、光昭に背中を向けたまま冷えた声を響かせる。
「僕はね、優しい両親に憧れて、そう自分もなりたいと努力している途中だから……」
空は振り返り、後ろに立たされた光昭に微笑み、
「まだ理想の自分に、なれていないと思うよ」
「…………」
振り返った空は笑っていたが、その声は聞き慣れないそれのままだった。 光昭はまだ言葉を失った様子で、この後、笑顔を消した空の言葉を受けるだけとなる。
「彼女は泣いていた、不甲斐無い僕のせいで理由も言えずにね」
空の言った台詞はまさに光昭の読み通り、愛里は空に事情を説明していない。 なのに光昭は、戦慄していた。
その声と、断罪する筈が無いと高を括った優しい天使の瞳に……
―――何の慈悲も感じなかったから。
「全て、僕に責任のある事だからね。 だから……」
――――聞き出した。
話は核に迫っている、小狡こずるい光昭じぶんにはもうわかっている筈だ。 何か弁明する必要がある。 でなければ上手く立ち回れない。
わかっているのに、その口から言葉は発せられなかった。
「僕が悪いのにね、それなのに、多分……怖がらせてしまった。 自分が失いたくないから、自分勝手に言わせた……――――君の名前をね」
「お……俺は……」
乾いた口を開き、何とか声を出すがその先が続かない。 天使の翼は鎖となり、光昭の身を雁字搦めにしているようだ。
「もう、誰も傷つけないって誓ってくれる?」
それは、与えられた救いの言葉だった。
地獄に落とされる自分に差し伸べられた一本の綱。
しかし、それを誓う事は自らの非を認める事になる。 そうとわかっているのに、光昭はそれにしがみつき、頷きながら「わかった」と言った。
いや、愛里と同様に――――言わされたのだ。
「約束だよ」
声も柔らかくなり、笑顔を見せる空に光昭は―――許された。
そう思い、また二人は歩き始める。
◆
自宅に帰った光昭は、自分の部屋に入ると乱暴に鞄を投げつけた。 ベッドに仰向けになり、苦虫を潰したような顔で天井を見つめる。
動き難くはなった。
それに、相手は思っていたようなお人好しでもない。
だが、それならそれでやりようがある。
今まで以上に慎重に、尻尾さえ掴ませない巧妙さで動けばいい。
押さえつけられ言われるままだった憤りから、光昭は寧ろ復讐を誓った。
そんな彼が日が経つにつれ感じ、思ったことは―――
――――許された?
あの日、自分は―――――許された筈だ。
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