幽幻アパートへようこそ!
星月 香凜
第1話
疲れた。
疲れていた。
とにかく私は、疲れていたんだ。
深夜10時。
上司に押し付けられた仕事を処理して帰宅中、自らの生活を顧みる。
働いて、寝て、また働くだけの日々だ。
冷蔵庫で冷えているビールだけが楽しみ――と思ったけれど、今日は切らしているんだった。
どうせならさっきのコンビニで買っておけば良かったなあ。
自嘲気味に笑い、空を見上げると路面照明灯の明かりにまぎれてぼんやりと星が見えたような気がした。
月はない。今日は新月か。
慣れた足取りで、いつもの路地に入る道を曲がる。もうすぐ我が家だ。
「――わっ!」
不意に、足元を大きな黒い塊が横切った。
なんだろう、ネズミ?にしては大きすぎる。猫――いや、これは、
「ワンちゃん…!」
ワンちゃん、すなわち犬!黒くてふわふわの子犬がしっぽを振っているではないか!
かわいい!愛でたい!マジ無理!!疲れすぎてHPギリギリMPゼロの私には最早抗う術などなかった。
迷いなく手を伸ばし、頭をなでるとクゥンと可愛らしい声を出してすり寄ってくる。
「可愛いねえ、君はどこからきたの?」
真っ黒で綺麗な毛並みの子犬――きっと良いところのお家から逃げ出してしまったのだろう。
うーんそれにしても癖になる柔らかさだ。まさに至福の時である。
そこで私は思わず言ってしまったのだ。
「君、迷子なの?――もし良かったら、私の家に来る?」
その言葉を吐いた途端、生温い夜風が私の頬を撫でた。
――俺を招いたな、娘。
どこからともなく降ってくる声に喉が鳴る。子犬の頭に手を置いたまま、恐る恐る後ろを振り返ると――誰もいない。
聞き間違いだろうか。疲れているから仕方ないか。
「ワンワンッ!」
子犬の鳴き声で我に返り、再び手元に視線を戻す。
すると、子犬はするりと私の手を抜け出して、闇夜へと走り出した。
「あ、ちょっと!!」
子犬が逃げた方向は丁度私の古アパートの方向だ。
――もしかしたら飼い主さんが探しているかもしれないのに!
私は、疲れているのも忘れて闇夜を駆けだした。
* * *
1時間半後。
「……いない」
一通り近所を探して回ったものの、どこにも見つからない。
息を切らしてスマホの時計を見ると、日付が変わるまであと約30分。
ああ、今日はなんて日だ。
ともかく明日、警察に届けよう。迷い犬を見かけたと。
見失った子犬ちゃんの姿かたちを忘れまいと、必死で思い起こしながら自宅のあるアパートの階段を上る。
古い階段がキィキィと情けない私を嘲笑う。
201号室。ここが私の住まいだ。
溜息をつきながら扉を開ける。
ちょっとしたハプニングはあったが、何でもないいつも通りの一日が終わる――そう思った矢先のことだった。
ワンルームの洋室に、それは、いた。
「今宵はお招きありがとう――素敵なお嬢さん」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
いや、誰だこいつは。
青白い肌に黒い髪――そして宝石みたいに赤い瞳。
尖った形の珍しい耳に、近代ヨーロッパ貴族のような服……コスプレというやつかな?
本気であなたは誰ですか?
こんな愉快な悪ふざけをする友人に心当たりはない。
「ふふ、呆けている顔も可愛いね。今夜は楽しいことになりそうだ」
いやいや全然楽しくないっつーの!
帰宅したら珍種の変態が自宅に侵入してたとか!!
そうこう考えているうちに、玄関に立ち尽くしている私の元に横柄な態度の男が近づいてくる。
ここはいったん外へ出て警察に――っ!?
「あ、開かない!?」
「無駄だよお嬢さん、吸血鬼の王子たる俺と君の逢瀬を邪魔する不届きものはいないんだ」
うわーっ!!!本気でアカンやつだ!!!と、とにかく警察に連絡を!
「――人を呼ぶのかい」
「――!」
慌ててスマホを取り出した私を見やり、自称吸血鬼の変態は不敵に笑った。
そして、次の瞬間、男の姿が歪み、煙のように消えてしまった。
「え、何、消え―――」
「――だから無駄だって。諦めて楽しもうよ、お嬢さん」
「う、うわーーーーーーっ!!」
思わず叫んでしまった。無理もないだろう、消えたはずの男が急に目と鼻の先に出現したのだから。
しかし、うん。なるほど。ここまでくるとさすがの私も理解する。
なるほど、これが――
「幻覚かあ……」
「は?」
「ついに疲労で幻覚を見るようになるとは……」
「いやあの、」
とりあえずお風呂入って何か食べるか。
「え、ちょっと待って、ねえ」
何やら焦る『幻覚』を尻目に私はスーツに手を掛けた。
「いや、ちょっと!!えっ!?大胆すぎるだろ!何!?――い、いや、俺としては歓迎だぞ、私を誰だと――いややっぱ無理!心の準備が!!無理!」
何やら幻覚は部屋の隅のほうで此方に背中を向けて丸まってしまった。
騒がしい幻覚だなあ。まあ、寝れば治るだろう、寝れば。
お風呂から出て着替え終わると、何やら幻覚がダイニングテーブルの向こうに正座していた。
「ねえ、君、ちょっと」
それにしてもこの幻覚はうるさい。
うるさいけれど、返事位はしても問題ないだろう。だって私の幻覚だし。
「なんですか」
「――!よ、漸く返事をしたな娘!!君はなにやら俺の存在を誤解しているようだから言っておくが、俺はジルベール・ド・ナイトレイ。高貴なる闇の種族、吸血鬼の血筋を引く者だ」
……私って中二病的願望まだ残ってたんだな。
作り置きしておいたごはんをパクつきながらぼんやり考える。
「おい、聞いているのか!?…コホン。して、君の名前は?」
「ヨーコ」
「ふん、ヨーコか。喜べヨーコ!今日からお前は俺の眷族として――っておい!何処へ行く!?」
「歯磨き」
「え、あ、はい――いや、はいじゃないが!これは重要な契約の話なんだぞ!」
「ほーん」
「いいか、高貴なる俺が君の首筋に牙を突き立てれば契約は成立する――君の欲しいものはなんでも与えよう。ただし君は永遠に俺の、ちょっと、待ってくれよ!!」
「寝る」
「なんで!?」
「歯磨きが終わったから」
もう深夜2時近くだ。早く眠らないと明日の仕事に響く。
「は、歯磨きがおわっ…!?ふ、ふむ。まあいいだろう。反論がないところを見ると契約には同意したんだね?――さあ、こちらへ来い――すぐに終わるさ――夢のような時間と共に、ね」
「いや、うるさいんだけど」
「な、なんだと貴様!」
「だからうるさいですって。私明日仕事なんです。仕事に遅刻したら下手すりゃ私の人生丸つぶれですよ?上司がアレなんだし。いい加減にしろ」
――って自分の作り出した幻覚に言っても意味がないか。
いや、だからこそ好き勝手言っても問題ないのでは?だって幻覚だし。
「だいたいなんですかそのコスプレ感ハンパない中二病ファッションは」
「ちゅ、ちゅう…!?なんだかよくわからないが俺の服装が物凄く侮辱されているのはわかるぞ!?」
「見てて恥ずかしいからやめて。なんでこうなった!?私そんな趣味ないと思ってたんだけどなあ」
「は、恥ずかしい、だと……!?」
「とにかく寝よ。おやすみなさい」
「……いや、待てよ。待ってくれヨーコ」
「おやすみー」
強引に幻覚の言動をシャットアウトして布団にもぐると、大きなため息とともに「おやすみ」と返ってきた。
案外、幻覚と同居するのも悪くないかも――などと考えてしまう私は疲れているのだろう。
そんなことを考えながら、私は瞼を閉じたのだった。
* * *
翌朝。
「おはよう、ヨーコ!朝ごはんはもう出来ているぞ!」
「どなたですか……って、ああ。幻覚か」
まだ残ってたのか。
「だから!俺は幻覚じゃないから!!ジルベールだから!ジルでいいから!!!」
「うーん、私はいつの間に朝ごはんを作ったんだろう?」
「だから!作ったのは俺だから!!」
「美味しい!」
「それはよかった!契約はひとまず先延ばしにしてやる。とにかく君は健康な身体づくりに励みたまえ」
何を言っているのかよくわからないが、こうして、私と幻覚の同居生活が始まったのである。
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