知り合う

 氷花が唇の内側で星玻璃と呼ぶと、鳥は彼女の腕に止まってさえずるようになった。隠者に教えを受けるときもついてくる。隠者は部屋の中に止まり木を作ってくれた。氷花が教わるあいだ鳥は眠り、夕方になると外へ飛び立っていく。己の眠りのうちに、氷花はかれが視た景色を夢で知る。ふたりは同じものを視た。昼は氷花の眼で、夜は星玻璃の眼で。

 目覚めているうち、氷花は夜鴉の傷ついた左腕の代わりとなるべく動いた。夜鴉が鳥の代わりに負った怪我の治りは遅く、隠者曰くここが空漠の地ゆえ時の流れが滞るのだろうということだった。年を取らない理由と同じだと。

「そういう魔術がかかっているのか?」

「逆だよ。この地には何もないのだ。時も、風も。空漠とは未だ名付けられぬ力、世界あらざる地、まつろわぬ神の大地をいう」

 隠者の言葉に、氷花はいつか雪漠で聞いた声を思い出した。まだ隠者に会う前、夜鴉とふたり雪漠へ辿り着いたとき、どこからか響く声がうたった。――これなるは何者にもうたわれず、何者にも言祝ことほがれず、何者にも悼まれぬ、死すら取り上げられた大地の空白、白きことばよ。

 ふしぎなことに氷花は、その一言一句を今も思い出すことが出来た。極彩色の虹とともに流れ込んできた、象ろうとする声たち。

「白きことば……」

「白き詞。そう、それが空漠と伝えられている。人とは違う理で巡っている。なに、四半月も経てばこの地の理が働いて、怪我も元に戻されるだろう。すべての時がはじまりに戻される。それまで治癒は期待できないだろうがね」

 夜鴉は苦い顔をしていたが、氷花を責めることも〈血〉を使ったことを悔やむこともなかった。けれどある日、ついて歩く氷花へ根負けしたように夜鴉が言った。

「傷のことはもう気にするな」

 塔の長い廊下に彼の黒い衣がひるがえる。翼の先に似たそれを目で追って、氷花は夜鴉の腕、未だ血のにじむ包帯を見た。それから高い位置にある彼の顔を見上げた。

「夜鴉はわたしのことを嫌いなのだと思っていた」

「突然、どうした」

「そうじゃないって気がついたから、勘違いしていて、申し訳なかった」

 夜鴉は少女を見下ろし、唇をゆがめた。

「そんなことはない。お前のことは嫌いだ。手に負えん。だからお前も、俺のことを嫌いでいろ」

「ひどい」

 それでも夜鴉のしてくれたことは何も変わらないし、たぶん彼は氷花を置いていくことはない。それだけは氷花にもよくわかっていた。

「賢しらに人のことを知ったように語るな、ということだ」

 夜鴉は氷花の額を弾く。痛かった。けれど氷花は、もっともだとうなずいたのだった。

 それで隠者に教えを受けるとき、氷花は言った。

「わたしは夜鴉のことをよく知らないから、知りたい。隠者のことも、知りたい」

 真昼の光が格子窓から差し込み、卓上に幾何学の影を刻んでいた。すでに席についていた夜鴉は露骨に顔をしかめ、棚から本を取り出していた隠者は大きくうなずいた。

「まわりのものを知ろうとすることは、よいことだ。答えがすぐそばにあるのもいい」

「教えることなど何もないが」

 夜鴉はそう反抗したが、隠者に諭された。

「氷花を新しい土地へ連れて行こうというならば、君はもっと味方になってあげるべきだ」

 大変嫌そうな顔をした夜鴉だったが、その日以降も隠者の部屋へ来ることを断ることはなかった。

 隠者はまず己の職業について語ってくれた。伝承筆耕師という、古くから口伝えに繋がってきた物語を文字に記す職。隠者は家を捨て、師のもとで文字を学び、伝承の降りてくる日を待ち望んでいたこと。その修行の日々について教えてくれた。それは氷花の知らない物語であり、隠者のゆたかな声で語られる言葉は慈雨のように降り注ぎ、森にあらたな芽生えを与えた。

 夜鴉は自分自身については教えてくれなかったが、魔術について教えてくれた。第八邦に伝わる〈血〉について。因果応報と復讐を司る力であり、その魔術があらわれたものは邦主に仕えることとなる。邦主の盾となり血となる役目を担う。それもまた氷花の知らない物語であり、夜鴉の静かな声で語られる言葉はそよ風となって森を吹き渡り、緑は茂っていった。

 魔術については、多様な知識があった。たとえば〈眼〉は十一邦に伝わる魔術のうち、唯一血筋に寄らぬ魔術だという。幻妖を名付けて捕らえ、その眼を借りる術だそうだ。氷花には思い当たるものがあり、棘を飲み込んだような心地がした。星玻璃との繋がりは、魔術だったのかもしれない。けれど氷花はそれを夜鴉には告げなかった。

「お前に魔術についてを語るのは、お前が使わないためだ」

 話の終わりに、夜鴉はいつも氷花にそう言い聞かせたからだ。

「けっして近寄ろうとするな。魔術にも、魔法にも。お前の声はあかるすぎる」

 いつかと同じように夜鴉は言い、氷花は神妙にうなずいた。この声は明るい。その言葉の意味を少しだけ、今は理解している。夜鴉の声は雪漠を超えられず、氷花の声は超えた。おそらく、そういうことなのだろう。音、温かさ、光、なにかがこの声は違うのだ。だからこそ氷花は知らぬうちに星玻璃を捕らえてしまった。それは少しの罪悪感と共に、高揚もあった。裏付けられた契約によって、氷花と星玻璃は離れることはない。

 氷花はさまざまな話で満ち足りた森を大切に抱いて、夜になると目を閉じた。話を聞くことは楽しかった。あの呼霊こだまの詩人からも、もっと話を聞いておけばよかった。きっとかれの話もまた、氷花にとってかけがえのないものとなっただろう。けれどかれはもう、ただ吹く風のように消えてしまった。変わらぬ日々のように見えて、変わらぬことなどないのだ。氷花は急に心細くなって、そっと傍らの鳥を眺めた。変わらぬように羽繕はづくろいするかれを眺めて、ようやく眠りに落ちた。

 そうして過ごすうち、夜鴉と隠者の話を聞き続けた星玻璃は、言語を解するようになった。夢とも現ともつかぬ鳥の目で飛ぶ夜に、ひが、と拙く話しかけられたときには、目が覚めそうなほど驚かされたものだった。けれどその声は昼間には聞こえず、決まって夜になり、空を飛び始めると聞こえてくるのだ。はじめは氷花を呼ぶだけだったが、徐々に「たのしい」「どう?」「いっしょ」と小さなことばを話すようになり、自らのことを星玻璃と呼ぶことを覚えた。だんだんと流暢になっていく星玻璃の声を、氷花は夜ごと楽しみにするようになった。

 夜半、星玻璃の目から見下ろす雪漠はいつでもうつくしい。氷の野末のずえがほんのりと色づき始めている。やがてこの白き地にも夜がくるのだと隠者は言っていた。夕やみの訪れる前、そのほんの先端で時を止めた雪原は、ほころびかけた花蕾からいのように赤い日もあれば、木陰の重く連なった枝先のように青い日もあった。それは夏の終わりの夕暮れを思わせ、氷花の胸を騒がせた。あれほど変化もなく永遠に続くように思われた雪漠が、静かに変わろうとしている。

「氷花、たのしい?」

 星玻璃がいとけない声で尋ねる。氷花は思わず「たのしい」と答えた。すると胸の奥で小さな火花が弾けた。ことばが胸の奥から抜けていき、またそこへ入っていく。繋がっている、という感覚。それは朝になり目覚めてもまだ胸の内にあり、氷花と星玻璃とをたしかに繋ぐ絆となって残っているのだった。

 ある日、隠者が氷花へ言った。

「君のことも教えておくれ」

 氷花はまたたいて彼を見上げ、わたしのこと、と呟いた。

「君がどこでどう暮らしてきたかを、もっと私も知りたいんだ」

 胸の裡をざあっと大きな風が吹き鳴らしていった。ずっとそこに留めてきた森を、言葉を、隠者は語ってもいいという。忘れようとしてきた日々のことを。

 ぽつぽつと語り始めると、小さな唇は、舌は、たどたどしくも動き始め、やがてなめらかに語り始めた。語るほどに、少女は思い出していった。自分が何者であったのか。まほらの森の下枝しずえ。もはや誰も呼ぶことのない名前、フラエシルトゥ。そこにこめられた意味と、伝統。

「君たちは自分のことを枝というのだね。木ではなく」

「わたしたちはひとりでは木にはなれない」

「家族で木になるのかな」

「カゾク」

 その言葉には聞き覚えがあった。昔、氷花がひとりでフラエシルトゥ咲く丘へ降りたとき、子どもたちが語った。親子。兄弟姉妹、親戚。どれもまほらの森には存在しないものだ。

「まほらの森に血はない。あるのは名だけ」

「名?」

「わたしたちは、森の名前をさずかる。名付けられた緑の名をみなが覚えている」

「名前で繋がる部族というのは興味深い」

 隠者が身を乗り出して聞き始めると、氷花は嬉しくなった。自分にも知っていることがある、教えられることがある。思い返す日々はずいぶん色あせていたが、近づけばまだ芳しい青い香りが漂った。森を覚えている。

 氷花は幾度も言葉に詰まりながら、さまざまなことを話した。森での暮らし。下枝しずえ上枝ほずえ、若葉たちのこと。明かすことが出来ないが、それぞれに緑の名がついていたこと。その名は古くから伝承されてきたこと。

「古より伝う名前か。まるで英霊の名のようだね」

「エイレイ」

「伝説に残る活躍をした死者のことだよ。その名を今に継いでいる。今、といっても現代にも残っているかはわからないが……」

 隠者が夜鴉を伺うと、彼はうなずいてみせた。

「公貴族の名はだいたいが英霊名と伝え聞く」

「やはりその風習は残っているのだね。大抵は七音から成り、雌雄同名で、男性は前半を、女性は後半を略して呼ぶのが特徴だ」

 氷花はあっと声をあげた。

「緑の名も同じ」

「そうか。では、緑の名も、伝承される英霊の名なのかもしれないね」

「英霊名にも、うたがある?」

 思わぬ偶然に氷花がそう尋ねると、これには二人は首を傾げた。

「緑の名には、詩がある。すべてを正しい順番で、ひとつなぎに歌うのが習わし。それを唱和という」

 唱和はまほらの森に、青白き森に冬と春とをもたらした。だからこそすべての緑の名を正しく呼べることが、まほらの民の証だった。唱和すれば冬の間、木々はみな眠る。そして春にまた唱和すれば、木々を目覚めさせる。一人ずつ緑の、自らの名を呼んでいく詩。

「英霊名を繋げて呼ぶことはないな。以前も聞いたが、とても趣深い話だね」

 まほらの森のように、唱和はしないらしい。もしかしてまほらの森の外には、冬も春もないのだろうか。氷花は疑問に思ったが、雪漠はずっと冬のようだったし、春のない地もあるのだろうと結論づけた。

 氷花は胸の内側で、ゆっくりと緑を唱和した。まだ覚えている。まだ忘れていない。大切なうただ。これもまた、ふることばではシという。森の外にシはない、といったオントディルラの声を、氷花は再び森の奥で聞いたような気がした。

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