3ー2 特別な手

「シュカさん、ハンターネーム何にすんの?」


 ベッドから這い出てシュカとは反対側の縁に腰掛けた彼が、煙草に火を点けつつ軽い調子で訊いてきた。

 空調の風に乗って、ゆるりと煙が流れてくる。身体に色濃く残っていた心地よい気怠さが、一瞬にして醒めた気がした。


「んー……」


 曖昧に声を発して誤魔化した。今は仕事のことを考えたくない。


「昨日だったんだろ? 見習い期間の卒業テスト」

「まぁ、ね」


 素肌にシーツを巻き付けたまま寝返りを打ち、彼に背を向ける。


「何、なんかあったの?」

「別に、何でもないよ。ちょっと疲れただけ」


 ふーん、という何気ない相槌。少し間の後、ぎしりとベッドが軋み、覆い被さるように覗き込まれた。

 混じり気のない煙草の匂いがする。


「珍しいな、シュカさんが弱ってんの」

「……悪い?」

「新鮮」

「あんたムカつく。そもそも弱ってないし」


 微妙に鋭いのが余計にムカつくのだ。

 彼はにぃっと笑うと、シュカの肩を掴んで仰向けにした。

 その瞬間、思い出す。あの、レイの大きな手。諭すように、窘めるように、そして労うように、ぽんぽんと肩を叩かれた。


 唇が触れ合って、はっとする。シーツの中に滑り込んでこようとする彼の骨張った手を押し留め、シュカは身を起こす。

 灰皿の上には、まだ長い煙草が先端を押し潰されて転がっていた。だが、構わずベッドを出る。


「ごめん、帰るわ。明日も朝早いし」

「おう、了解」


 彼は機嫌を悪くした様子もない。

 素早く服を身につけ、荷物を持って玄関へ向かう。


「シュカさん」


 呼び掛けに振り返ると、彼は何となく真面目な顔をしていた。


「……何?」

「いや……また連絡してよ」


 この前、連絡つかなかったくせに。


「……了解、またね」


 へらりと表情を緩めた彼に手を振り、玄関を出た。


 彼とは知り合って五年ほどになる。以前は所属先が同じだった。どんな時でもノリが良く、明るくて気のいい男だ——誰に対しても。

 気楽な相手。でも、気を許しきるには気の引ける相手。

 互いの都合のいい時に軽くテニスボールでも打ち合うような間柄、それがちょうど良いのだと思うことにしていた。

 だが今日ばかりは、こんなことをしている場合じゃないと、重たい何かが胸の奥に鎮座している。


 彼の部屋を後にした途端、身体に残っていた微かな熱は、何事もなかったかのように消え去ってしまった。




「ユノキ・シュカ。君をノース・リサイクルセンター所属のハンターとして正式に認める。これからの活躍も期待している」

「拝命いたします」


 シュカは卒のない動作でトバリに敬礼する。ずらりと並んだ先輩ハンターたちに向き直って一礼すると、大きな拍手に包まれた。

 ちらりとレイの方を見やる。彼はこの第一会議室の端に立ち、精悍な面差しに小さく微笑を湛えていた。


 さっそく、正式なハンターとなって最初のオペレーションだ。

 スカイスーツを身に纏い、正式に貸与された制服のジャケットに袖を通す。武器を準備し、そして胸に抱えた真新しいヘルメットに目を落とす。

 一面に乱れ咲くあかい花。

 側面には『SPIDER LILY』の文字。


彼岸花レッド・スパイダー・リリィだな。いいハンターネームだ。華やかで力強くて、よく似合ってるよ」


 そう声を掛けてきたのは、すっかり準備を終えたレイだった。

 彼のヘルメットはシンプルだ。黒をベースに、青白い閃光がデザインされている。


「あの……怪我は、大丈夫ですか?」

「あぁ、もう何ともない。言っただろ、かすり傷だって」


 よっ、と胴を捻ってみせるレイに、シュカはぎこちなく笑みを返した。


「じゃあ、今日から改めてよろしくな」

「はい、よろしくお願いします」



 だが、シュカは以前のように思い切って戦うことができなくなっていた。

 スクラップ・クリーチャーと対峙し、いざ攻撃を仕掛けようとすると、なぜだか身体が萎縮してしまうのだ。

 これまで全くと言っていいほど注意を払っていなかった他のハンターたちの動きが、いちいち気に掛かる。

 鉄屑を切り裂く刃が、コアを撃ち抜く弾丸が、また味方の誰かを傷付けるかもしれない。

 そう思ったら、どう動けばいいのか分からなくなってしまった。


「シュカは援護に回れ」


 見兼ねたトバリからは、そう指示された。

 せっかく正式なレアメタル・ハンターになったのに、少しも役に立っていない。

 その日は、これまでの討伐数の最低記録を更新した。



 そんなオペレーションが何度か続いた。

 しかし活躍こそできなかったものの、後列に下がり、先輩たちの戦いぶりを見ていて、分かったことがあった。

 それは、全員の動きがそれぞれに噛み合っているということだ。

 一人がメインターゲットを足止めし、その他の者が鉄屑の身体を削る。誰かがコアを砕こうとする間、別の誰かはその邪魔をさせぬようにと周りの小型クリーチャーを一掃する。

 彼らの間に、細かな指示の言葉はない。それにも関わらず、全員が一つの線で繋がるように敵を攻め、あるいは退き、同時に守りを固めていたのである。


 シュカはとりわけレイを視線で追っていた。人一倍大柄で目立つ彼は、他の誰よりも周囲に目を配り、その時々に応じた役割を見事に果たしている。

 どうしてそんなことができるのだろうか。

 それに比べてシュカは、こうして先輩たちの様子を観察した今であっても、その中に混じって上手く立ち回る自信がなかった。

 チームワークを乱してしまったら。

 また誰かに怪我を負わせてしまったら。

 ちゃんと仕事をしなければと思えば思うほど、足がすくんでしまう。


 ——これだから女は。


 かつての上官の言葉が蘇ってくる。

 自分は役立たずなんかじゃない。そう思い込もうとしていたあの頃の強い意思は、もはや見る影もない。

 募っていくのは焦る気持ちばかりだ。結局、自分はただの足手まといなのかもしれない、と。



 そうして儘ならない日々を過ごすうち、ひと月が経った。

 いつものように不甲斐ない任務が終わり、ノース・リサイクルセンターへ戻ってきて、一人残って地下訓練場で仮想オペレーションを行う。


 幻であれば、いくらでもクリーチャーを倒すことができた。

 どれほどの強敵であっても、躊躇うことなく立ち向かっていけた。

 理由は単純。シュカ一人だからだ。

 三つ目のステージをクリアし、VRゴーグルを外すと、誰かの拍手が高い天井に響いた。

 びくりとして振り返る。すると、扉付近にトレーニングウェア姿のレイが立っていた。




 訓練場とジムの入り口にある休憩スペース。

 レイは自販機でスポーツドリンクのペットボトルを二本買い、片方をシュカに差し出した。


「ほら」

「ありがとうございます」


 二人並んでベンチに腰を下ろす。


「カンザキさんは、まだ帰らないんですか?」

「生憎、侘しい独り身でな。予定も何もないし、もう少しやってくよ」

「そうですか」


 レイはシュカの七歳上なので、三十歳ぐらいだ。恋人もいなさそうなニュアンスだが、それを今ここで確認するのも変だろう。


「シュカ、最近どうだ? 自主トレ頑張ってるようだけど」


 レイがさらりと訊いてくる。

 途端に、心臓がざわざわと騒ぎ始めた。

 シュカはゆっくりとペットボトルに口を付ける。蓋を閉め、膝の上に置き、視線を落とした。


「私、全然役に立ててません。どうにかしたいと思うけど、足を引っ張りそうで……また何か間違えてしまったら……」


 言い淀んで、少し迷った後、口を開く。


「……怖い、です」


 一旦言葉にしてしまうと、唇から弱音がどんどん溢れてくる。


「この先ハンターを続けられるのか……皆さんと一緒にクリーチャーを狩れるのか、正直分かりません。自分が弱くて嫌になります。どうしたらカンザキさんみたいに強くなれますか? どうしたら……怖くなくなりますか?」


 レイが、うーん、と唸った。


「俺は未だに怖いよ」

「え?」

「だって、明日死ぬかもしれないし」

「でも……」

「強く見える?」

「……はい」


 はは、と軽い笑い声が返ってくる。


「みんな同じだよ。クリーチャーが怖い奴だっているし、シュカのように事故の心配をする奴もいる。戦うことが怖くない奴なんて一人もいない」

「そうなんですか? そんな風には見えないですけど……」

「いいか、臆病なのは悪いことじゃない。何かを怖れる気持ちがあるからこそ、周囲を警戒して危険を察知することができる。一人じゃとても太刀打ちできない敵が相手でも、他の奴らと役割分担して、自分がどう動くべきかを見定めるんだ。そうすれば、互いに守り、補い合いながら、強敵に立ち向かっていくことができる」


 レイががっしりした指先で頬を掻く。


「つまり、なんだ、冷静な判断というのは、そういうことだ。怖いという気持ちこそが、重要なんだ」

「……はい」


 かつては素直に受け入れられなかった言葉。今ならば、ちゃんと理解できる。


「だけど、チームに入って日の浅いシュカが、自分のペースを掴めず不安に思うのは仕方ない。みんなが通る道だ。お前は飛行装置の扱いも上手いし、瞬発力もある。だから、まずは自分なりに周りを見ながら、自分の思うように動いてみろ」


 レイが力強く微笑む。


「大丈夫。俺がお前を見てるから」


 その時、心臓が驚くほど大きな音を立てて跳ね上がった。


「……分かりました」


 小さな声でそう答えるのが精一杯だった。

 レイはペットボトルのドリンクを飲み干し、よし、と呟いて腰を上げる。


「じゃあ、俺はもう少し走り込んでから帰るよ。お疲れさま」


 そう言ってシュカの肩をぽんと叩き、トレーニングジムの扉の向こうへと消えていった。


 シュカはそのまま、身じろぎ一つできずにしばらく呆然としていた。

 相変わらず、心臓が騒いでいる。


 ——俺がお前を見てるから。


 そういう意味ではないと、分かってはいた。

 だが、この肩を叩いた大きな手の感触が、ずっと消えずに残っている。

 頬が、身体が熱かった。どうしようもないほどに。

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