第140話 山梨:まあ気が向いたらってことで



 手持ちのジャケットでは太刀打ちできなさそうな寒さになってきた。



「……ふぅ」


 息が白くなったりはしない。それほどではない。しかし暖かいとは口が裂けても言えなかった。昼間になればまた違うが、少なくとも朝晩は冷える。


 11月も中旬に差し掛かり、風も少しずつ強くなってきた。遠州の空っ風だ。これが体感温度をバカみたいに下げる。浜松で暮らすならこの風への対応は怠れない。服装はもちろんだが、洗濯物とかは油断すると一発で吹き飛ばされていく。バイクのカバーも気を付けなくては。


「厳しいかな」


 群青色の空。東の遥かには微かに朱が差している。

 朝もずいぶんと遅くなった。時刻は5時半を少し過ぎたくらい。夏だったらとっくに明るくなっていて、気温も高くなっているだろう。


(まぁ、ダメだったら引き返せばいいか)


 ヘルメットを抱えたままエストレヤの傍らでしばらく迷っていたのだが、もはや走ってみなければ分からない。今の服装で走って、バイクの走行風による体感温度の低下に対応できるか否かなんて。


 購入を検討していたレザージャケットはまだ買えていない。値段的に踏ん切りがついていなかった。寒さに備えて追加で購入したのはグローブだけだ。冬場に自転車に乗る時にも手袋は必須なのだ。自転車より速度の出るバイクでは必須ではないなんてコトはありえない。


 メットを被り真新しい冬用グローブを身に着ける。グローブは厚手でモコっとしていて、夏用グローブと同じように指の関節を保護する固いガードが付いている。そしてやはりモコっとしているので、細かい作業は向かなさそうだ。しかし身に着けている分にはかなり暖かかった。


(何とかなるかな)


 エンジンをかけて走り出す。手持ちの衣類による防寒だったが、いまのところ何とかなりそうだ。寒いが我慢できないほどじゃない。風防機能のあるジャケットにハイネックのシャツ、そしてネックウォーマーが効いている。


 本当はネックウォーマーではなくマフラーを使いたい。層を重ねる分マフラーの方が防寒が期待できそうだし。しかし、タイヤに巻き込まれて首を締める可能性があるものは極力きょくりょく身に着けないというのがライダーの常識らしい。


 浜松インターを素通りして北上する。笠井街道を通って新東名浜松浜北インターにアプローチした。今日は新東名を使って目的地へ向かう。


 目的地はざっくり山梨。山梨県内をのんびりふらふらするつもりだ。強いていうなら山梨の旬の果物くだものはどこかでいただきたいと思っている。未天と一緒に食べたタルトに使われていた、秋満載の果実は記憶に鮮やかだ。


 高速に乗る。強い走行風を受けるようになるが、何とか耐えられる寒さだった。風をしのげているのは大きい。風防様々だ。これから太陽が昇り気温も上がっていくはずなので、状況は改善していくだろう。


 朝と言っても路肩のフェンスのライトや自動車のヘッドライトがまだ灯っているような時間帯だからか、自動車はまばらだった。そのせいだろうか。自分の足の間でエンジンがうなりを上げているのだが、それでもどこか静かに感じられた。


(……落ち着く)


 変な話だと思う。快適とは言えない気温の中を、時速80キロくらいの猛スピード、かつ身体ひとつで走っているのに。


(バイトしんどかったからかな……)


 結局のところ、フィリーの影響力は尋常なものではなかったということだ。週末だけでなく平日にも、オートバイに乗った人々が来店するようになっていた。それはそうだろう。誰も彼もが週末が休日というわけじゃない。


 幾人の人々と言葉を交わしたか分からない。オーダーを取る時はもちろんだが、イレギュラーな会話がゼロとはいかない。例えば『フィリーちゃんってこのお店よく来るの?』とか。


 人と接して消耗するあたり、自分がいかに人付き合いに向いていないかつくづく実感する。今日だって未天あたりと一緒に来ても良かったのかもしれないが、結局1人で来てしまった。


(おいしいくだもの買ってこよ……)


 未天に。


 え? フィリー? 


 ……まぁ気が向いたらってことで。




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