第116話 未天のバイク:特別ではないということ
グレーのクラシック・フルフェイスヘルメットを未天は選んだ。灰色がちな彼女の髪に似合いの色だった。
そんな彼女は今、自動車学校の片隅でそのヘルメットを抱えている。ブーツを履き、全身にプロテクターを装着し、さらにナンバーの入ったビブスを着用していた。傍らにはグローブもある。二輪教習の典型的なスタイルだった。
「ききき、緊張してきた……! さっ、
突き落としてバイクの何の訓練になるというのか。
ちなみに犀ヶ崖は近所にある崖で、古戦場として知られている。家康と戦っていた武田軍が転落し死者を出したと伝わっており、つまり落ちると本当に危険だ。
「二輪教習は公道に出ないから犀ヶ崖にも行かないよ」
「な、なんだ……ほっ。良かった」
仮に公道に出たとしても突き落とされないが、彼女が安心できればまぁ何でも良いだろう。それに落ちるなら一本橋から落ちることを心配するべきだ。
「ヘルメットのあごひもは正しく締めて。クラッチ操作とかは最初は難しいけどだんだん慣れてくから。焦らず、落ち着いて。あそこにあるバイク、わかる?」
「おっきいね。さては大型バイクだね?」
「あれが教習車のCB400SF。400ccの中型バイク」
「ええっ、あんなすごそうなバイクでやるの!? それに排気量400ccってことはメグちゃんのバイクの、ええと……1.6倍! も、もしかして空とか飛べたり……?」
「すごいバイクというのは正しい」
そして空も飛べそうな気分になれるというのであれば、それは確かだ。かつては恐ろしくも感じたCB400SFの軽快な吹き上がりも、今となっては懐かしい。そしてエストレヤでは真似できないという点において、その感覚をまた味わってみたいとすら思う。今なら以前とは異なる感想を抱くことができるだろう。
「エンジンガードが付いてるから、コケても足とかが挟まれることはまず無いよ。でも怪我しない保障もないから気を付けて。もし万が一教習中に怪我したり、ぶつけて外傷は無いけど痛んだりするようなら、すぐに指導員に申し出ること。そういう時のための保険に……まぁ、このあたりはたぶん説明あるからいいか」
そんなこんなでチャイムは鳴る。教習が始まるのだ。
「じゃあ待ってるから」
「うん。いってきます」
軽く手を挙げてからコースへ向かう未天。私はそれを見送ったあと、ロビーのソファに腰かけた。
「……」
正直、めちゃくちゃ心配だ。
今日は初回の技能教習。バイクを押したり引いたり、そして実際に走らせたりもする。バレーボールをやったら顔面レシーブしかしない未天だ。怪我だけはどうかしないでもらいたい。
自転車に乗れるということは、操作さえできればバイクを走らせることはできるはずだ。となるとやはり鬼門は引き起こしになるだろうか。自転車を起こすのすら難儀していた未天が、果たして100kgを超える鉄の塊を起こすことができるのか……いや、今はとにかく未天を信じる他ない。
そしてバイクも信じる。長い歴史の中で磨かれ、人が扱うために最適化されてきた機械だ。より多くの人が運転でき、そして選ばれるようメーカーが工夫に工夫を重ねてきた結晶だ。
バイクは選ばれた者しか乗ることができないような特別な乗り物ではない。自動車などとは違う知識と操作が必要なだけの、数多の人間に
「……ははは」
祈っていた。未天が無事バイクの免許を取れることを、いずれ自分のバイクを手に入れ共に走り出すことを、存外強く祈っていた。
(どれだけ楽しみなんだか、私は)
そんな風に自分に呆れていた頃。
「あ」
未天は無事、横たえたバイクを起き上がらせていた。
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