第39話 湿り気



『一緒にお昼行きませんか??』


 ポケットでスマートフォンが震えたのは、濡らして絞ったクロスでエストレヤを拭きあげていた時だった。見た目以上にバイクのボディは汚れているらしく、クロスにはベッタリと砂埃が付着していた。


(フィリーだ……)


 砂は研磨剤と同じだ。下手にこすれば車体の塗膜を傷つける。塗膜だけならまだ良いが、下地の金属まで傷つけてしまうと錆びの原因になる。


 本当は洗車をしたいところ。しかし、まだ道具が無かった。なのでエストレヤを傷つけないよう、そっと撫でるようにクロスを動かしていた。


(何時だ、いま)


 時計を確認する。10時半。


 休日。バイトもなく、あわよくばどこかに出かけたかったが、天候も芳しくないのでやめておいたところだった。


『どこ?』


『市内!』


『いや、どっちの……』


『浜松! そっち行くから!』


 市内。


 浜松民ならこのワードが危険だと分かる。

 浜松はやたらと広い。いわゆる中心市街地は海に近い平野部にあるが、もっと北の山間部、長野県との県境の近くだって浜松市内だ。夏場、毎年のようにすさまじい最高気温を記録することで話題になる佐久間町や、長野との県境を綱引きで決定するイベントなどで有名な水窪町だって浜松市内だ。


『あ、大丈夫! ちゃんと中区だから! 佐久間とか水窪とか言わないから!』


『なんてお店?』


『それは着いてからのお楽しみ! メグの家の近くの用品店で30分後くらいに集合ね! またあとで!』


『まだ行くって言ってない』


 しかしそのメッセージに既読が付いたのは30分後だった。


「はあー……」


 やはりぺースを乱される。彼女は苦手だ。エストレヤを拭き上げながらため息が出た。


 拭き上げはシートから始まりメーター周り、タンク、フロントフェンダーといった具合に上から下へ進めていた。汚れが少ないところから手を入れているつもりだ。思っていた以上に汚れていたのがヘッドライトとミラーで、しかし走行風がほぼ真正面からぶつかるゆえ仕方ないと納得した。


 足回りは当然のように汚れている。タイヤのスポークに至っては濡らした布程度ではもはや汚れが落ちなかった。エンジンの冷却フィンの隙間の汚れは、奥まっているがゆえに布地が汚れに届かない。清掃不能だった。何らかの洗剤か道具が必要そうだ。


「——えっ」


 思わず声が出た。


 視線の先にあったのは、エンジンの下あたりのフレームに取り付けられた警笛ホーンだった。上から車体を眺めてきて最後に見つけた。


(……さ、錆びてる)


 円盤状のホーンに錆が浮いている。全体的にまんべんなくだ。触ってみる。ざらざらしていた。


(ここはメッキだったんだ……)


 このエストレヤにはメッキ部分がほとんど無いからと思って油断していた。まさかこんなところにメッキが使われていたとは。


 いつかフィリーが言っていたことを思い出す。エストレヤなどのメッキがふんだんに使われたオートバイは、サビないように維持して、もし錆びてしまってもそれを手入れするのが楽しいのだ、と。


 そう語るのであれば、彼女は錆からのリカバリー方法を知っているに違いない。


「……」


 用品店にでも行こう。


 別にフィリーの誘いに乗ると決めたわけではない。あくまで錆びの除去方法を知りたいだけなのだ。それから洗車用具も見繕いたい。


 汚れたクロスを片付ける。弟に昼食はいらないと伝えた。肩掛けバッグに財布やらスマホやらを詰め込みメットを被ったころには良い具合の時間だった。今から店に向かえば、フィリーと同じくらいのタイミングで到着しそうだ。


(雨が降りませんように)


 エストレヤが、湿った空気の中を泳ぎ始めた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る