第10話 始まりの鼓動
走行距離5,000キロ、ワンオーナー、室内保管で傷もガソリンタンク内のサビも無い。それで5万円。
「無料でもらったようなもんですね」
バイクショップの店員さんは言った。
私は従姉から引き取ったエストレヤを、従姉が新車で買った際の店に持ち込んでいた。持ち込んだといっても、お願いしてトラックで回収してもらったのだ。
回収に現れた店員さんは従姉にバイクを売った店員さんだったらしく、従姉のことを覚えていた。
『女性のライダーは少ないですから』
と、店員さんは今までより少しだけ音量を落としてこぼした。どんな理由であれ、誰かがバイクに乗らなくなったことは寂しいのだろう。
しかしこうも続けた。『でも、彼女に買ってもらえたのは、このバイクにとって素晴らしい運命だったようです』『こうしてまた乗ってくれる人に巡り会えたんですから』と。
「しばらく乗ってないことにはかわりないので、オイル交換は必要ですね。バッテリーの電圧は出ていますけど、念のために交換をおすすめします。それからプラグも」
「費用はどのくらいですか?」
「点検整備と名義変更、運搬費……あと自賠責やらなんやらもありますので、これくらいですね。あとは点検してからじゃないとなんとも」
電卓に表示された数字を確認する。まあこんなものだろうという金額だった。本体より高額だが、本体が身内価格すぎるのだ。
「お願いします」
「ありがとうございます! 費用が高くなりそうだったら整備前に連絡しますね」
「時間的にはどのくらいかかりますか?」
「2、3日いただけますか? 完了次第連絡しますので」
「よろしくお願いします」
というやりとりをしたのが一週間前だ。実際連絡は3日後に来たが、私が学校やらバイトやらで受け取りにいけなかった。なので結局また週末だった。
自転車で出掛かける頭でいて苦笑いする。店からはバイクに乗って帰ってこなくてはいけないのだから、自転車で行っても困るだけだ。
スキニージーンズを履き、風防機能付きのハイネックパーカーを羽織った。あらかじめ買っておいたフルフェイスヘルメットと皮グローブとを、ヘルメットを買うとついてくる簡素な袋に投げ込んだ。財布とスマホは肩掛けのバッグにしまった。
スイカサイズの巨大な何かを抱えてバスに揺られる私の姿は、少しばかり目立っていたかもしれない。
「いらっしゃいませ」
バイクを回収してくれた店員さんが出迎えてくれる。
「バイク受け取りに来ました」
「はい、できてますよ。外で待っていてください」
店員さんはにこやかに笑って、工場の方へひっこんでいった。
いよいよだ。
いよいよこの時が来た。
ヘルメットとグローブを袋から取り出し、袋は折り畳んでバッグへしまった。その手は少しだけ震えていたかもしれない。
モタモタしていたら、店の外から店員さんが顔を出す。
「あ、すみません」
少しだけ早足で踏み出す。固いタイルの床を蹴り、紫外線の強い5月の日差しの下に進み出た。
印象的な逆三角形のクランクケース。
丸形で統一された灯火類。
同型のバイクとしては珍しいブラックアウトしたエンジン回り。
水平に延びた黒いマフラー。
夜空の色に似た藍のサイドカバー。
同じく藍色をしたガソリンタンクに、燦然と輝く星をあしらったエンブレム。
エストレヤ。
出会った瞬間のあの胸の高鳴りが、私の胸に再び訪れていた。
「サービスで洗車しときました。あとワックスも。オイル交換とか、うちの店でやってくれるとありがたいですね」
確認お願いします。店員さんはそう言ってキーを差し出した。それを受け取って、ハンドルの中央にある鍵穴に挿し、まずは電源をいれた。ニュートラルランプがグリーンに点灯して、メーター類が一瞬振りきれる。ウインカー、ハザード、ブレーキランプ、クラクションが動作することを確認した。
エンジンを始動する。始動ボタンを押したらすぐにエンジンが回り始めた。
「OKです」
「じゃあサインお願いします」
一旦エンジンを切り、店員さんの差し出した紙にサインする。代金は支払い済みだ。
「これでいいですか?」
「結構です。じゃあお気をつけて」
「はい」
会釈してからヘルメットをかぶる。グローブを手につけ、バイクにまたがってからスタンドを払った。オフにしたばかりのキーを再びオンに回した。クラッチを開き、前後輪のブレーキを掛けたままイグニッションボタンを押し込んだ。
ボン、という炸裂のあとに、トットットットッという等間隔で均質な鼓動が鳴り響き始めた。
「……!」
これがエストレヤ。
これがエストレヤの鼓動。
これがエストレヤからの景色。
(……凄い)
ヘルメットを被ると視野は狭くなる。
だけどこの瞬間、私は確かに。
(すごい、すごい……!)
この先にある、広大な世界に出会ったのだ。
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