第5話 絶対グレてやる
千春は怒っていた。
——なんなの、あの学校。なんなのうちの親!
今日、千春は学校に漫画を持ち込んだ件で職員室に呼ばれ、親は呼び出され、先生とママに交互にさんざん絞られた。
——なんで漫画でそこまで言われなきゃいけないの
千春は小さい頃から絵が得意で、同級生からは漫画家になればとまで褒めそやされた。その漫画でなんであそこまで言われなきゃいけないのよと怒り狂っていたのだ。
——絶対グレてやる
千春は今日そう決心し、通学路の途中にある古風な喫茶店の前に立っていたのだ。千春にとって、学校帰りの女子が喫茶店にひとりで入ることが、どうやらグレる第一歩だったらしい。
「いらっしゃい」
蔦の絡まった茶色の重い扉を開けると、カウンターの中にいた髭を生やしたおじさん、いや、お爺さんかが千春を出迎えた。
「ご、ごきげんよう」
入りざまに挨拶をされて、つい千春も口癖になっている挨拶を返してしまった。
座っていいのか、案内されるまで待っていた方がいいのか迷って立っていると、お爺さんから、
「どうぞ、今は空いてるから、お好きな席へ座っていいよ」
と言われ、千春は道路側から目立たない、1番隅のテーブル席に座った。グレてやると決心してきた割には、まだ学校から怒られないかと気にしていた千春だった。
「注文が決まったら声かけてね」
ドキドキしながら座った千春に、髭のお爺さんが優しく声をかけた。
「マスター、おあいそ」
「おや、やっと学校に行く気になったかい」
さっきまでカウンターにいた大学生ぐらいの男の人が、髭のお爺さんとそんな会話をしてた。
——そっか。マスターって言えばいいのね。
千春はなんとなく納得して、メニューをキョロキョロ探していると、テーブルの上にプラスチックの小さなメニュー立っているのにやっと気がついた。
——これがメニュー? まさか、たったこれだけ?
しかも、ドリンクと書いているところには、千春が聞いたことがない名前が並んでいる。
——ブルーマウンテン、キリマンジャロ、サントス、ブラジル、トラジャ。どんな飲み物?
そう考えながら下に辿っていき、やっとメロンソーダを見つけた。
——寒くないかな。でも他のはわかんないし。
「マ、マスター、メロンソーダを」
と、千春はとりあえず自分がわかる飲み物を注文すると、マスターが、
「今日はお店にとってすごく特別な日だから、よかったら僕に君の飲み物を選ばせてくれないかい」
と優しく言ってくるので、
「あっ、はい」
と、つい返事をしてしまった。
——特別な日ってなんだろう。変な飲み物を飲まされたりしないかなあ。
簡単に返事をしてしまった自分に反省しながら、千春はドキドキしながら飲み物を待った。その間に鞄から本を取り出し、こんな場所に慣れたフリをしながら、古典文学のカバーを掛けた、実は漫画の本を読み始めた。
「はい、お待ちどうさま」
しばらくすると、マスターはソーサーに乗ったコーヒーカップに入った飲み物を持ってきた。千春は最初、コーヒーかと思ったが、コーヒーや紅茶の色はしておらず、白い泡が立っていた。
「これは?」
「いいから、一度飲んでみて。僕も久し振りに作ったから少し不安だけど」
マスターからそう言われ、意を決してカップを持ち、そっと啜った。口の中で溶けるような甘いホイップクリームと、その下から少し苦味のあるコーヒーの味。初めて飲む飲み物だ。
「美味しい……」
千春は自然とそう口にする。
「気に入ってくれたかい」
そう言いながらマスターが髭を撫でる。
「これはなんという飲み物ですか」
「ウインナコーヒーという飲み物だよ。コーヒーの苦みとクリームの甘みのバランスが女性には好きな味じゃないかな」
「はい。すごく美味しいです。でも、さっきメニューを見たとき、そんな飲み物はなかったと思うんですけど」
千春がそう言うと、マスターはニコリと笑い、
「今日は特別な日だと言ったでしょう」
と言う。
「それが気になってたんです。なんの特別な日なんですか」
千春が聞くとマスターが言う。
「今日初めてこの店に君が来た記念日だからね。だからメニューにない特別な物を出したくなってね」
優しい目で笑うマスターに、
「はい」
と千春は小さくうなずいた。
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