森を背負う巨大亀 1
世界滅亡、俗に言う『
「はっ、はっ……!」
以前の日本には絶対になかった大きさの木々が、これでもかと生い茂る森。その根が張った土壌に生える雑草でさえ、一メートルは余裕で超えるというスケールの大きさ。植物が異常に成長したというよりは、人間の方が小さくなった。そう言った方が
「や、だ……っ」
背の高い雑草群を抜けると、急に視界が広くなる。森の動物たちも利用する泉だ。ちょうど巨大な四本角の鹿が、ちろちろと蛍光色の水を舐めていた。その彼も接近する存在に気づき、一目散に木々の間へと消えていく。木の弾ける音が後ろから近づいてくる。
「いや、だ……っ!」
泉に満ちた光る水をかき分け、小さな体が対岸へと消えていく。その姿を追うように、筋肉質の
何もかもが巨大な森。そこにおいて人間は、猫の巣に迷い込んだ鼠だ。小さく、そして食われる側でしかない。
だからこそ、森に迷い込んだ少女は――2トントラックほどの大きさの猪に追われていた。
「はぁっ、はぁっ!」
(いやだ、なんで、どうして……!)
少女の身長は雑草から頭頂部が出る程度。今年でようやく10歳を迎える彼女の幼さは、猪の目から身を隠すのに機能していた。しゃがみこんで息を殺し、少女は必死で捕食者の牙から逃れようとする。
「…………?」
獲物を見失った猪は、足を止めて鼻を鳴らす。そのわずかな身じろぎでさえ揺れが伝わる。あの肉厚な脚が掠めるだけでも、少女の華奢な体など弾け飛んでしまうだろう。少女はあの恐ろしい存在に見つからないようにと、ただ祈る。
しかし猪というのは鼻がいい。トリュフを見つけるのに使われるのは犬ではなく近縁種の豚だ。だから猪は獲物の汗の匂いを嗅ぎ分けて、興奮するように咆哮した。
「――――――――ッ!!」
「っ!」
見つかった。少女はたまらず立ち上がり、走り出す。少しでも遠く。生存本能に従って足を動かす。
だけど少女の決死の数歩は、猪にとってはたったの一歩だ。一瞬で距離を詰められ、間近に感じる振動に少女は足を取られた。そのおかげで猪は目測を誤り、柔らかいお腹を貫くはずだった牙は太い幹に突き刺さった。
「う、」
今のうちだ、と少女は駆け出す。猪は牙を抜くのに苦労しているようだった。あんな硬そうな木を貫通するほどの鋭い牙が、もし猪の狙いどおりになっていれば、と少女は戦慄する。
少女がしばらく走っても、猪は追いかけてこなかった。もしかすれば、逃げ切れたかもしれない。少女は安堵し――直後にそれが間違いだと気づく。
規則的な振動。漏れ出すような獣の声。木々をなぎ倒して向かってくる猪の牙には、あの木が突き刺さったままだった。
抜けないから、引っこ抜いた。あまりにも強引な手段で追いついてきた猪に、少女は今度こそ絶望する。
血走った目が少女を捉える。もう逃すまいと大きく開いた口の端から、大量の涎が地面に垂れる。猪は力任せに首を振り、牙に刺さったままの木を少女に向かって投擲(とうてき)した。
「あ」
向かってくるそれに、少女は一つだけ後悔した。
(お母さん、最後に――)
湧き上がる恐怖に思わず目を閉じて、弱肉強食の掟を享受する。弱いから少女はここで死ぬ。強いから猪は少女を食う。文明が崩壊し、そんな当たり前の法則が戻ってきた新時代。
だけど。
だけど、ついにその時は来なかった。
「?」
疑問に思って目を開けば、目の前に誰かがいた。日本の甲冑と西洋の鎧を組み合わせたような格好をした、長髪の少年。彼は刀身まで真っ黒な刀を握って、少女を庇うように立っていた。
「
「分かってるさ、
二つ目の声は、少女のすぐ傍から聞こえた……と思うと、急に視界が暗くなった。どうも、もう一人の学ランを着た少年が、傘を差したらしい。雨が降っているわけでもないのに、どうしてだろう?
猪が突然現れた少年たちを警戒するように、雄叫びを上げる。対して長髪の少年は、刀をまっすぐに構えた。戦うつもりだ。少女はなんとなくそう察した。でも、どうやって?
「心配しなくてもいいさ」
学ランの少年が、いやに自信満々に言う。
「彼は〝最強〟だからね」
そう告げる彼の口元には、三日月みたいな
猪が大きな一歩を踏み出す。長髪の少年も同時に駆ける。激突までは一瞬だった。だから決着までも一瞬だった。
少年の刀が、猪の横っ腹を切り裂いた。激突の勢いに合わせるように、刀を添わせて交差した。猪が激痛に呻く。
でもそれだけでは力尽きない。痛みと流血に怒るように、突進の勢いを殺さず反転し、猪は再び少年を狙う。木の幹すら容易に貫く牙が、少年の鼻先まで迫る。
「『
途端、弾けた。
長髪の少年が何かを呟いたと思えば、猪の体は爆散した。
辺りに血肉が飛び散る。これから少女を守るための傘だったのだ、と今気づいた。
もはやあの恐ろしい地響きは聞こえない。あの巨躯は見る影もない。嘘のような静寂と血の雨に、少女はただ呆然としていた。
ぼとり、と何かが足元に転がってきた。その正体があの血走った目だと気づいて、少女はふらりと倒れた。
(こ、これ……夢?)
地面に完全に倒れる前に、誰かに体を支えられたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます