6月5日 9:00 悪魔
例の日が近づいてきた。2年に1度の特別な日。私は、2年に1度だけ人を殺す。殺さなければ、私は人として生きられない。
毎日のように、人を殺す欲求に駆られた時期があった。しかし、殺してはいけないことを知っていた。
その理由は、在り来りなものだ。人を殺すと逮捕されてしまう。
人を殺すことを容認してしまえば、人間としての悦びは得られず、野生動物のように生きるしかなくなる。自分が生きたいのなら、他人を殺してはいけない。
今まで当然のように教えられ、植えつけられてきたことだ。私自身、そのルールに不満はない。趣味の映画も平穏に鑑賞出来ることは、このルールがあるおかげに他ならない。
しかし、それとこれとは別である。私は、人を殺したい。客観的に見れば異常者だろうな。
だが本当に私以外の人間は、殺人欲求がないと言えるだろうか。他人を疎かにしたことはないと言えるだろうか。
ああ、その時は必ずあったはずだ。
例えば、通勤時間帯での横断歩道。車で信号待ちをしている時、歩行者信号は赤にも関わらずのんびりと歩き続ける者。
自転車で、車の進行方向正面に突っ込んでくる愚弄な者。
他人を貶めようとする者。自分のミスを人のせいにして、お礼も謝罪も行わない者。
自分さえ良ければ、列の割り込みだって、クレームだって好きにしていいと思っている者。
そんな奴らに会ったとき、私以外の奴だって思ったことがあるはずだ。
「1回、死ねばいいのに」
殴って、泣かせて、自分の行動がいかに愚かだったかを謝罪させたい。それを想像して、少し気持ちが浮き上がって、溜息が出る。あほらしい、そんな惨いこと出来るわけないと……。そこが周囲と私との違いなのだろう。
想像して、人を殺すまでは収まらない。そうして、1人を殺してから少し楽になったことに気がついた。もし殺人欲求が湧いてきても、「今年は、もう殺したから」と思えるようになった。
しかし、生活するために殺しているのに、毎年リスクを犯すのは良くない。
だから隔年にした。殺した次の年は、欲求が膨れ上がっても去年の記憶を思い出して、繰り返せばいい。「今年は我慢しよう。来年また殺せるのだから」と自分に言い聞かせてきた。
そして、最初の殺害から20年になる。毎回、捕まりにくいよう隣県であるY県で全て行っている。とはいっても、大学時代にはY県に住んでいたわけだから、土地勘がないわけではない。
1人目は、大学時代に痴漢冤罪を作っていたとニュースになったが釈放された悪女。2人目は、公園で遊んでいた女大学生。3人目は、生徒に暴力をふるっていた中学教諭。4人目は、飲んだくれサラリーマン。5人目は……とまあ、関連性なく殺害してきた。
奇数の人には、何かしらの加害者を。偶数の人には、何の被害にも遭わなさそうな人を選び、殺害することで、関連性を探して私を見つけ出すことを阻んだ。
まあ、私怨のためにやっていることではなく、欲求を満たしたいだけなのだが、計画を立てて行わないと、警察が勝手に共通点を導く可能性もある。
とはいえ20年間捕まっていないわけだから、私の作戦は成功したと言えるだろう。警察は、被害者同士の共通点を探すことや県内の不審者情報を探すことに躍起になり、私に辿り着くことは無かった。
2020年の6月6日。明日で11人目の被害者が出る。今年と来年を平穏に過ごすために、明日は人を殺す。私の湧き上がる高揚感を、今更止める者は誰もいない。
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