少女 ネモフィラ

 少女ネモフィラが暮らしていた都市は‘製本の都市’と人々から呼ばれていた。近年まで、スラブ大陸において書き物をする際につかうものといえば、羊皮紙が主流であった。もっとも、これらは日常で使うにはとても高価な代物だった。それが、この都市で木材を原料とするパルプ紙が発明されると、以後はそれらが大陸各地で普及することとなった。そして、製法が確立されて、工場での生産が始まると需要は高まる一方であった。大陸おける一大製造拠点として、都市には多くの工場が並ぶこととなった。

 そうした都市の発展期に、ネモフィラは都市の一角にたたずむ薬屋の一人娘として生まれた。たいていは皆、彼女のことはネモと呼んでいた。しかし、母は病気でネモが幼い時に亡くなり、父はパルプの製造工場に勤めていたが、数年前に起きたボイラーの爆発事故のために亡くなっていた。その後は祖父との二人暮らしだった。生活は都市の発展とともに豊かになったが、彼女には両親の死という悲しみが影を落としていた。家業と薬学の勉強に打ち込むことで悲しみを紛らわした。


 すでに夜も遅い頃合いだった。ネモは避難する多くの市民とともに歩いていた。彼女はふと立ち止まり、都市の方を振り返ってみた。炎で赤く照らされた煙がもうもうと立ち上っていた。そして、都市のシルエットも暗がりに浮かび上がっていた。単なる火事ではない、戦争であった。都市に火が放たれたようだった。

 この大陸において都市同士の外交問題でひと悶着起きるのはよくあることだった。そして騎士たちが、さらには他国の傭兵までもが雇われて戦場に出向き、武力で決着をつけるということもよくあることだった。が、今回の戦いは異例なことばかりであった。後に戦闘を生き延びた人の言葉を借りれば、ひどいありさまというのだった。これまでの戦争といえば、前述のように騎士といったような戦闘の専門集団同士が都市の外で行うものだった。それが、今回ばかりは都市を破壊することが目的のように思われた。

「本を焼く気か?こんな、まるで焚書だ」

 見知らぬ誰かが、ぶつぶつと呟きながら彼女の横を足早に通り過ぎていった。製本の都市といわれるだけあって、街には図書館も多かった。おそらくこの様子では、通りすがりの誰かが言ったように、焼けて灰になってしまうだろうと思われた。

 彼女は再び歩き始めると、つい先ほどの出来事を思い起こしていた。


 表の通りではランタンや松明の明かりを持った兵士たちが市民に避難を呼びかけていた。近くの別の都市が味方をしてくれることになり、避難民を受け入れてくれることとなったのだ。

「おじい様、一緒に逃げましょう」

「ネモ、よく聞きなさい、わしは一緒について行けんよ。もうすっかり足腰がだめになってしもうとる」

 じっさい、ネモの祖父は杖なしで歩くのが困難だった。

「まだ間に合うわ、きっと」

「戦争となれば怪我人の治療に薬が必要じゃ、わしが残っていたほうがよかろう」

「そんな…」

「ネモ」おじいさんは諭すような口調で続けた。「人はいつか最期を迎えなければならない。それに、わしはここを離れる気はないんじゃ」

「でも…」

「いずれにせよ、わしは先は長くなかろう。だが、お前さんはまだ若い、未来があるんじゃ。それは分かるじゃろ?」

 ネモは黙ってうなずいた。

「行きなさい。とにかく戦闘が落ち着くまでは、この都市から離れなさい」

 彼女はバッグに必要なものを急いで詰めた。といっても、もともと質素な生活で持ち物は多くなかった。出る間際、「そうじゃ、これも持っていきなさい」とおじいさんが言った。手渡したのは石だった。首飾りのような紐についていたが、もちろんそれは単なる石ではないようだった。「わしの妻、つまりネモのおばあさんがもってたもんじゃ。能力者の石じゃ。もしかすると役に立つかもしれん。わしにはあまり必要のないものみたいじゃったが」

「おじい様…」

「わしゃ大丈夫じゃ、急ぎなさい」


 ネモはもう一度振り返って都市の方を見た。

「おじい様、無事でいてください」

 それだけつぶやくと、他の避難民に混ざって歩いた。

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