強欲の虫

昂南空

第1話


人の顔には三匹の寄生虫がいます。

目と、鼻と、口です。

やつらの主食は人の感情で、たまに排泄するように感情を表に出したがります。

私たちの顔面は、日々、やつらに蝕まれているのです。


「あははっ。え、ちょ、なに、武藤さんマジうけるんですけど」


それは私たち人間に、時として多大な被害を与えます。

たとえばこうして、なにも面白くない話に相槌をうち、苦笑いを浮かべて、まったく血も心も通わないような人たちと、お昼の席を囲んで息をひそめている私。


そんな、我ながらみじめな表情を形作っているのは。

すべて、やつらなのです。


「ハルノ、笑いすぎ。武藤さん怖がってるだろ」


「あ、ごめんごめん。でも面白くってさー」と、

彼女が平謝りをする人は私でなく、つれの彼氏さんです。「お前、笑い声大きいからうるさいんだよ」彼氏さんがハルノさんを否めます。


「アキヒトひっどーい。だってしょうがなくない? だって――」だって、と二回くり返し、油が肥えた舌で前置きをして、ハルノさんは大きく『口の虫』を歪めて声を出します。


「好きな人できたんでしょ? 武藤さん。スッゴい以外で、ビックリしちゃった」

「あくまでお前の憶測だろ。……ごめんね武藤さん、怖がらせちゃって」

「あ、い、いえ。お気になさらず。私も気にしてませんから……」


ああ、なんて下手くそな嘘なのでしょうか。


『口の虫』が吊り上がっているのが自分でもよく分かります。


きっと今の私はひどい顔をしています。背中には冷や汗がしたたり、『目の虫』はあさっての方向へ泳いで、『口の虫』が発声する声は軋むようにうわずっています。


……無口で、根暗で、普段から口をつぐんでいる女が恋をするのが、

そんなにもおかしいでしょうか。


 「分かりやすくてかわいいなー武藤さん。で、誰だれ? 誰が好きなの?」

 「だから、つつくなってハルノ。お前ががっついて聞くから怖がってんだろうが」

 「そうだけどさー……。なんか、今日のアキヒト冷たくない?」

 「武藤さん、時間とらせちゃってごめんね。食堂行ってきなよ」

 「……いえ。時間もないので、ここで食べさせていただきます」


 そう言って、私は二人の顔をうかがいながらパンの袋を開きます。ハルノさんはファンデと口紅で装飾した顔を怪訝そうにゆがめ、アキヒトくんは、ただ心配そうに見ていました。


 そうして彼らや私の表情を作っているのは、いつだって三匹の寄生虫です。

 やつらは、人間の感情が美味であることを知っています。

 ゆえに主食は人の感情です。

 嬉しい感情も悲しい感傷も、美味いうまいと食い始めて、寄生した顔に絵を描くがごとく、笑顔だとか怒りだとかを表に出しはじめます。


 ……人間はいつだって、欲と理性のはざまで逡巡する生き物です。欲を知って、求めるものが大きくなって、だんだんと自分の首を絞めていく。

 そういった迷いは、すべて、やつらから生まれます。感情を表に出すことは、やつらにとって排泄と同じ。だから、たまに出さないと破裂してしまうのです。

 寄生した人間の意志に関係なく、理性を食い破って外に出そうとします。

 感情を。

 喜びを、哀愁を、楽しさを。そして……怒りを。


 「よっ……」

 「ん? どうしたの武藤さ……」


 言葉につまったアキヒトくんの『目の虫』が、ぎょっと揺れたのが分かりました。


 「寄ってたかって私をいじめて……。たっ、楽しいですか?」

 気づけば私は、しわになりそうなほどスカートを握っていました。

 こぼれそうになるほど、大粒の涙を両目に抱えています。

 正確に言えば、顔面の寄生虫たちが理性を侵食して私に起こさせた行動でした。

突発的な、衝動でした。


「そもそも、ここ……私の席なんですけど。それを、なんなんですか……一方的に話しかけてきて、一方的に秘密を暴こうとして。話題がなくなったら、食堂に行け、って……。それって、あまりにもひどくありませんか」


 不思議なくらい、言葉がとまりません。


 数秒前まで、考えてもいなかった悪態が魔法のように口をついて出てきます。

 アキヒトくんの顔には、不安と見てとれる青い表情が広がっていきます。


 そう、それですよ。


 寄生された人間に、ふさわしい顔をしています。


「そっ、そういうわけじゃないよ。そもそも、君に話しかけたのはハルノでっ」

「言い訳はいいので、放っておいてください。……私は、ひとりが好きなので」


 視線を合わせられなくて、私はうつむきました。

 彼らがどんな顔をしているのか分かりません。でも、声色から、おおまかな表情は読みとれました。


 「……怒らせちゃったかな」


 彼は怯えているようでした。


 「行こうハルノ」


 去りぎわに「そんな顔もできるんだね」とつぶやいた声を、私は聞き逃しません。


 ……違う、誤解しないで。


 本当の私は、こんなことを言わない。

 私という人間はもっと不安定で、不器用で、臆病で、感情を表に出したりしません。

 そんなこと本来なら怖くてできないはずなんです。


 なのに、こんな目上の人たちに対して、反抗的な態度をとってしまうのは……。


 「……オトナし気な人だと思ったら、泣くとかメッチャ卑怯じゃん。武藤さん」


 ハルノさんが私の正面に立っています。目線を下げているから、彼女の短いスカート丈からはみ出る瑞々しいきれいな脚が目に刺さります。


 「――あたしとアキヒトになんかあったら、許さないから」


 とても低い声音です。普段から無駄にキャピキャピとしている女子高生とは思えない、女を捨てた暴力的な言葉でした。


 ……いえ。


ある意味、女らしいと言えば、らしいかもしれませんが……。


 「……ふう」


 彼女がアキヒトくんを追いかけていくのを確かめて、自然と、ため息が出てきます。

 体中の空気が抜けていって、やっと手に入れることができた平穏な時間に頭が冷静になっていきます。

 ……こんな風に、人間の表現する喜怒哀楽はすべてやつらに管理されてしまうのです。


 思ってもいない言葉を吐き、眉をひそめ、鼻の孔を大きく広げて怒ったりしてしまうのは、すべて私たちに寄生しているやつらの仕業です。


 だから、人が心の底から笑ったとき。

 それはきっと淡泊で、真っ白で、能面のように不気味でありながら、汚しようのない無垢な形をしているのでしょう。


 私はそれに、なんとなく憧れます。


 「災難だったねえ、武藤ちゃん」

 その声を。後ろからかけられたことに、心がトクンと跳ねた気がしました。

 振り返ればそこには、純白に輝く笑顔を称えるひとりの女の子が。


 「……佐倉さん」

 

 清楚な黒髪をポニーテールにしばっている佐倉さんは、お日さまの匂いを漂わせながら軽いタッチで私の肩をたたきます。


 ボディーコンタクト、というやつです。

 頬が熱くなって、たたかれた肩がむず痒く感じます。


 「あの二人、最近倦怠期でさあ。ハルノとか特にピリピリしてるのよ。本当ならノリがよくて悪いやつじゃないんだけど、どうしてもサバサバしちゃうんだよね。だから、ごめん」


 「ど……どうして、佐倉さんがあやまるんですか?」


 「ウチがあいつらの姉貴分だから、かな」


 二へっと、まるで男の子のように微笑む彼女の瞳は暖かくて、私のような日陰者の心に陽をそそいでいきます。


 手を伸ばしたい。

 あなたの、なんの穢れもない、その美しい『虫』に。

 恋をしていたい。

 寄生されながらも、自然体の優美さを失わないでいられる、その姿に。


 「だから、あいつらが誰かに迷惑をかけたら、その尻ぬぐいをするのがウチの仕事なの」


 彼女はいつも優しい言葉を、聞き取りやすい速度で話してくれます。

 それが嬉しくて。嬉しいのに、なのに―……。


 ああ……まただ。


 また、心にも浮かべていない苦い表情を、寄生虫たちが作っています。

 心の中ではこんなにも喜んでいるのに、上手く笑えません。話題を転がすことができません。


 想像していた笑顔を、作ることが……できないんです。


 こんなにも彼女に話しかけられたことに喜びを感じているのに、その喜びを表現できない。そんな表現力のない自分が、やるせなくなってしまいます。


 ――初めは、あなたに話しかけられるだけで胸がいっぱいだったのに。


 あなたに好きだと伝えたい――『口の虫』が言葉を紡ごうと揺れる。

 あなたの隠された恥ずかしい部分を覗きたい――『目の虫』が蠢く。

 あなたのほのかに香るお日さまの匂いに――『鼻の虫』が反応する。


 場面を重ねるごとに、私の虫たちは、どんどん強欲になっていく。


 でも、ダメなんです。


 そのどれを取っても、あなたはきっと困った顔をしてしまうから。


 だから、お願いだから、動かないで。


 私の強欲の虫たち。


 私は、私らしく生きたいだけなのよ……!


 「……ね、もしよかったらさ」


 嫌なことがあったらすぐに目を背けるのが私の悪いくせです。


 こみあげてくる涙を飲んでいると、視界の外側から初々しい声がしました。それが佐倉さんの発したものだと気付くのに、少し時間がかかってしまいます。

だって―……。


 「お弁当まだなら、一緒に食べてもいいかな」


 顔を上げた先にいた佐倉さんの顔は、赤子のように火照っているのですから。


 「……え?」


 「あっ、その……。もし嫌だったら、ぜんぜんいいんだけどね? 武藤さん、ウチらのせいで肩身が狭い思いをしてる節ってあると思うの。あはは、ウチらって結構うるさいからさ。だから、あなたが一人を好きなのは知っているけど。もし迷惑じゃなかったら」


 彼女は言葉を続けます。

 憂いのカケラもない、輝きあふれる真白の笑顔で。


 「ウチと、友だちになってくれませんか」


 ……私たちは、生まれたときから何かに寄生されています。


 それは顔面に住まう虫たちに限らず、時間であり、概念であり、そして、己が抱えている殻の大きさに気づけない自分自身です。私たちは、それを抱えながら生きていかなくてはなりません。


 身に余ると恥と、苦しいほどの恋心を抱えながら。


「……はい」


未来の私へ。


「よろしくお願いします」


あの時に私が見せた笑顔を、あなたは憶えているでしょうか。


                          〈了〉

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強欲の虫 昂南空 @kounannku

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