カフェ、バケツ

 カフェは雨もりがひどかった。天井のあちこちから雫が落ちてくる。

 そんな中、マスターは静かに流れている音楽に合わせて鼻歌を歌いながらカップを磨いていた。店内に客の姿は見えない。

 内装は木製のものが多く、落ち着いた雰囲気が漂っている。それに木の臭いもふんわりと漂っている。

 マスターは黒縁眼鏡をかけ、口の周りを囲うような黒い髭を生やしており、和やかな顔をしている人だ。


 入り口ドアについたベルが高い音で来客を告げ、一人の女子高生が入ってきた。ジーパンにTシャツという姿で右手に傘を差し、左手には黒い傘を抱えている。


「おお、藍ちゃんいらっしゃい」

「こんにちは、マスター!」


 藍は差していた傘をくるくると丸め、ドアの横にあった傘入れに立て、次に左手で抱えていた黒い傘をその隣に立てた。


「また雨だねえ。学校の方はどうだい?」

「学校ね……」


 彼女はカウンターに並んだ五つのスツールのうち右から二番目に座った。


「勉強が難しいかな。でも部活も楽しいし、何より友達と話せるのが楽しい」

「そうか、そうか。いやあ、それにしても藍ちゃん、すっかり大きくなったよねえ。ついこの前まであんなに小さかったのに」

「ついこの前って私が小学生の時でしょ。あれからもう十年経ってるんだよ。マスター、ブラックコーヒーで」

「十年か……。いつの間にそんな時間が経ったんだろう。毎日はゆっくりすぎているように感じるのに、一年はあっという間に過ぎてしまうなあ。それはそうと、ブラックコーヒーを飲めるようになったなんて、藍ちゃんも大人だなあ」


 マスターは磨いていたカップを置き、コーヒーを煎れ始める。

 

「そういえばね、私、学者になりたいんだけどね、そのための勉強が難しくて参っちゃうんだよね」

「ほほう、学者……。どんな学者だい?」

「えーっと、生物とか地学とかそっちの方の学者になりたいかな」

「たしかに難しそうだね」


 コーヒーの香ばしい臭いが流れてきた。藍はカウンターに頬杖をついて一点をぼうっと見つめている。


「でも、藍ちゃんならできると思うよ。いつも、コツコツやるべきことをやってるしね」

「そうかな?」

「うん。自分の好きな物で、そしてそれが本当にやりたいことなのであれば、きっと夢は叶うよ。今まで通りやっていけばいいさ」

「そっか。じゃ、今まで通りにやろう」

「はい。ブラック」


 マスターは湯気の立つコーヒーを藍の前へ静かに置いた。

 藍はそれを手に取り、少しだけ口を付けて熱そうに飲んだ。

 カップをカウンターに置いて藍は再び頬杖をついた。小さなため息が漏れる。


「もし藍ちゃんが誰かに想いを寄せていたり、やり場のない気持ちが溜まっているのであれば、遠慮なく私に吐き出していいんだよ。誰にも言わないから」


 マスターの言葉に藍は目を丸くした。


「えっ、なんでわかったの!?」

「この仕事をしていれば、様々な恋を目にするからねえ」


 マスターは置いてあったカップを手にし、またそれを磨き始めた。


「すごいな。マスターは恋愛マスターでもあったんだね」


 マスターは上品に笑った。


「よければ、聞くよ」

「うーん。彼と初めて会ったのは下校中、電車の中だったんだけど、彼は私の向かいの席に座ってたの――」


 藍は彼との出会い、電車から降り損ねた彼の一生懸命な姿を見て元気が出たこと、バス停で雨宿りをしていたら彼が現れて傘を貸してくれたことなどを話した。


「傘を貸してもらって助かったんだけど、いつ返せば良いか聞き忘れちゃって、それどころか名前すらも知らないから、最近はいつ彼に会っても傘が返せるように借りた傘を持ち歩いてるんだ」

「それで藍ちゃんは今日も傘を二本持っていたんだね。お話を聞く限り、彼はいい人そうだね。そして藍ちゃんも、傘をいつも持ち歩くなんてやっぱり真摯だね」

「ふふ、そうかな。……彼と別れてから、なんで彼に惹かれるのかなって考えたら、彼、私のお父さんにどこか似ている気がするの」


 藍は少し寂しげな表情を浮かべて、コーヒーを見つめた。

 マスターがグラスを見つめながら言う。


「浩二さんはいい人だったからねえ……」

「私も小さかったから、はっきりは覚えていないんだけど、でも明るくて頼りになる人だったのは覚えてる……」

「彼は海が好きで、よく藍ちゃんを沖に連れて行ったり、新しい島を探そうと冒険したりしていたね」

「傘の彼を見るとお父さんを思い出して、安心した気持ちになるの」

「浩二さんですか……。あの傘がその人の物なんだね」


 マスターがドアの横に立てられた傘を見た時、ドアが開いて店内にベルの爽やかな音が響いた。

 入ってきたのは制服を着た背の高い男子だった。

 藍は何気なく振り返ると、「あっ」と小さく声を上げてそのまま固まった。

 彼の方もドアを開けたままその場で動かなくなった。

 彼の目は大きく見ひらかれ、頬は少し赤みを帯びているように見えた。


 マスターは手にしていたカップを置くと、カウンターから出てきた。


「すみません、雨もりがひどくて……。バケツがいっぱいになってきてしまったので、水を捨ててこなくては。どうぞ、そちらの席にお座りになってお待ちください」


 マスターは店の真ん中に置いてあったバケツを持ち上げて外へ出た。

 マスターは店の外へ出ると振り返った。ドアのガラスから彼が藍の隣に座っているのが見えた。

 


 マスターは微笑み、小さく頷くとバケツの水を道路へと流した。

 流れ出た雨水は勢いよく側溝へと吸い込まれていった。



 *****



 二つの光が交差した、そんな感じがした。

 側溝へと流れる前に見たマスターの顔は温かさに溢れていた。

 きっと彼も昔、煌めきを持つ人と出会ったのだと、僕は彼の過去を想像してみたりしていた。

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