サーフィスの忌憚

城戸 晟

第1話

煌びやかに差し込む朝日を憎らし目に、アリスは枕に顔を埋める。

どうも朝は苦手で、起き上がるまでに時間がかかってしまうのは、いつも見てしまう『夢』のせいだろう。

 彼女は毎晩ではないが、夢を見る――平和な日常を蝕む悪夢だ。

 どこか分からない大きな部屋で寛ぐ自分。窓から眺める景観から、随分大きな家だと思う。先ほどまで青空が広がっていて、見下ろす先には沢山の花々が咲き乱れている。その花々を眺めながら、なんの何の不安もなく明日を夢見る。

 夢の始まりはいつも同じ。でも瞬く間に真っ黒な雲が晴天を阻み、辺りは昼だと言うのにどんどん暗闇に包まれていく、そして――

 アリスは憂鬱を振り払うように枕を強く抱きしめ、そして猫が伸びをするように「ん~」と声を上げながら体をほぐす。

「眠いなぁ」

 そう言ってはだけた胸を隠すこともせず、窓へと向かいカーテンに手を掛ける――

 しかし――

 結局思いあまって、その控えめな胸をやっぱり丁重に隠してからカーテンを開く。

「いいお天気。お兄さんは起きたかな」

 朝日に向かって最初に口にする言葉がお兄さんというのはどうなのだろう?

 未だに違和感のあるお兄さんと言う呼び方と、呼び名が示す人物への人称が合致せず、複雑な気分になる。

 もう半年になると言うのに、思い出すどころか記憶の断片すら全く浮かばないアリスは記憶喪失である。

 お兄さんに呼ばれたアリスと言う名も、妹と言う事実も未だに実感が湧かなかった。この半年で得た事は学校での日常を楽しめるようになった事くらいだろうか……。

 隣のベッドで眠るルームメイトの寝顔を見ながらアリスは思う――今は毎日を精一杯過ごそうと。

「そろそろ起きて下さい。遅れますよ」

 優しく囁いてみたものの、ルームメイトのリディアはまるで反応がない。

 彼女は勤勉で努力家でとても気品がある女の子だ。年はアリスと同じ16歳だが、アリスよりずっと大人びた雰囲気をしていて、仕草にとても気品がある。それは皇族の血筋と言うこともあるのかも知れないが、それよりもリディア自身の資質と言うものだと思う。

 透明感のある金髪と、エメラルド色の切れ長な瞳が高潔な存在へと押し上げている。

 毛布を羽織っただけで、真っ白な肌太ももが露わになっている。少し寝返りを始めたリディアはあろうことか胸元まではだけてしまった――アリスを変な気持ちになってしまう。

「……少しだけならいいよね」

 そう言って妖しげに右手を伸ばし、リディアに触れるその刹那――

 アリスは宙を舞い、ベッドへと押し倒される。

 あまりの出来事に呆然としていると、目の前には朝日に照らされ、その透き通る肌を艶やかに披露したリディアの姿。だがその瞳はアリスの知っているリディアの瞳とは大きく違っていて、いつもの凜々しい表情とは違い、まるで追い詰められたウサギのように怯えた瞳をしていた。 

「はぁ、はぁ……」

 激しく息を切らせる様は、見ていて愉快なものではなかった。

 両手を押さえつけられ、身動きの出来ないアリスは、その激しい息遣いを間近に浴びながらリディアを見ていた。

 厚めの唇から溢れる吐息――

 再び妙な気分になりそうになるのを堪え、アリスは謝罪を口にする。

「ご、ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんです……」

 ようやく口を開いたアリスは、押し倒されるとはこういう気分になるのかとついつい想像してしまっている。

「す、すまない。ゆ、夢でも見ていたのか、気が動転してしまった」

 リディアは慌てて手をどけると、乱れた髪を整え、目を両手でこすりながら上がった息を整えている。

 まさか朝から同級生の女の子を、裸で押し倒す事になるとは夢にもなかっただろう。

「そういえば昨夜、暗い表情をしていました……。何かあったのですか?」

 少し沈黙があり、リディアは暗い表情を見せたが、すぐさまいつもの凜々しい顔をアリスに向ける。

「いや、何でもない。少し疲れただけだ。心配をさせてすまない」

 リディアの様子から何かを推察することは難しい。彼女は皇族で、腕の立つ騎士でもあるのだ。どういう教育方針でこのガラキウス魔道学園に入学――しかも寮生活で、身分も低いアリスとルームメイトになったのかは想像も出来ないが。彼女にしか背負えない重圧もあるだろうと思う。

「ううん、気にしないで下さい。私達はルームメイトですから」

 そう言って咲き誇る花々のように微笑むアリスの笑顔は、リディアには眩しく映る。

 そのしなやかな表情は、彼女の人柄を醸し出すように可憐で儚げに見える。リディアのように武道を嗜んできた者にとって、その豊かな表情は同性から見ても美しい。

 アリスのように美しくお淑やかな女の子はそうそういない。自分の妹や、母親に限って言えばもっとわがままだ。皇族の女たちはもっと狡猾で高飛車な者達ばかりだ。

「っと、そろそろ準備をしなくてはな。朝食を抜くという行為は私の中ではあり得ない事だ」

 そう言って起き上がったリディアは裸のままだ。いくらガラキウス魔道学園が男子禁制とは言え、誰が見ているとも限らない。豊満な胸を露わにしているリディアに、アリスは少しだけ嫉妬する。

 ああ言う体が魅惑的というのだろう――

 武道を嗜んでいるだけあって、下半身に余分な脂肪は見受けられないが、胸同様、所々柔らかそうに適度な脂肪を蓄積できるのは何か裏技でもあるのだろうか? 長身と言う事もあり、抜群にかっこいい色香を感じるのは同性であっても同じだ。うらやましい……。

「……どうした? 視線を感じるのだが」

「いいえ、何でもありません……」

 ついぷいっとしてしまう――

 自覚なしだと言うのだから小憎らしいが、そんな事を思っても自分の体は変わらない。今は育ち盛りだ。これからアリスだって可能性が……。

「薄い……かな」

 ため息をついて、気持ちを切り替える。

「リディア、いつも言っていますが、裸のまま寝るのはいいですが、そのままウロウロしないで下さい。いくら女性しかいなくても、目に毒です!」

「なっ! 毒っ、だと……? この胸の事か? こんなもの邪魔なだけだ。重いし揺れるし、いい事なんて一つもないぞ」

「……皮肉……ですか?」

 沸々と湧きあがる感情を一言で言い表すなら、そう――

「ど、どうしたアリス、眼光が明らかな殺意を纏っているぞ……?」

「……気のせいです」

 アリスは今度こそ気持ちを変える。

 着替えを済ませ、部屋をあとにする――真っ白な制服に紺のリボン。アリスは白のニーソックスでリディアは黒いニーソックスだ。

 ポニーテールのリディアは、髪紐も黒で統一している。いつもは赤で均一しているのだが、やはり今朝はいつも違うようだ。

 朝の一件以降、先ほどまで和やかに会話を楽しんでいたにも関わらず、廊下を歩くリディアの表情は暗い。

 何か思い詰めているか、考え込んでいるようだ。

「そ、そうだ! 今朝はオムライスを食べませんか?」

 アリスは両手を鳴らし、リディアに提案する。

 リディアは納豆を好むため、ネバネバが苦手なアリスとは同じ朝食を食べたことがない。

「オムライス? 私は朝は納豆派だ。ネギと卵を掛けて食べるのは絶品だぞ? アリスも試して見るがいい」

「きょ、今日はオムライスにしてみましょうよ! 納豆は明日にして」

 気分を変えるのはおいしい食事が一番だ。特にトマトソースによる食べ物は気分を晴れやかになる。酸味と甘みのあるオムライスを食べれば、リディアの心の重荷が少しでも軽くなればとの提案だった。

「今日は……、オムライスでもいいかな」

 アリスの気遣いを察したのか、少し考えてリディアは賛成した。


 廊下を並んで歩いているだけなのだが、床といい、壁といい、シミどころか埃すらない。

 ガラキウス魔道学園は大陸で最も敷居の高い学園だ。

 いわゆるお嬢様学校と言うやつで、生徒のほとんどが貴族や皇族、商人の娘たちばかりだ。しかし何人か例外もあり、魔法の扱いがが優秀であるものや、勉学が特別出来る者も一握りだがいる。その者たちは特待生扱いであるため、学費も寮費もかからないがそのほかの学生はそれこそ莫大な学費を支払わなければならなかった。

 一年で家を一軒建てられるだけの額だ、一般庶民が支払えるわけなどない。リディアはともかく、アリスは勉強も魔法も特別ではない。そして家が裕福なハズはない思う。なぜなら家族はアリスとお兄さんだけだからだ。

 お兄さんが特別裕福そうにも見えないが、入学の際に僅かの日数で三年分の学費を用意したところを見ると、アリスが覚えていないだけで、実はすごい人なのかもしれない。

 食堂に着くと、長すぎるテーブルに真っ白なテーブルクロス、複数のメイドたちが均等に整列した空間が広がる。

 大理石という高価な石で造られた空間は、真っ白で眩しいくらいだ。動物の彫刻がいくつか並んでいて、その一つの口から清流が流れ落ちている――噴水が必要あるのだろうか?

 流石に半年もいれば慣れてはきたが、入る瞬間だけは少し緊張する。

「さて、ではあそこに座ろう」

 リディアが差した席はもはや指定席。皇族のリディアは学園でも屈指の身分の高さだ。一年生では最も身分が高いと言っていいだろう。そうなればリディアの座る席は自ずと誰も座らなくなる――集団心理とはそういうものだ。

「おはようございます。お決まりになりましたか?」

 椅子を引いてくれたメイドは改めて一礼し、二人の前で注文を待つ。

 一つ一つの仕草に無駄がなく、絶妙なタイミングで取り計らわれる。

「オムライスを二つ」

「あとイチゴミルクを……」

「じゃあ私も……」

 珍しくアリスと同じ飲み物を頼むところを見ると、よっぽど気分を削がれているようだ。

「かしこまりました」

 メイドが去ると、入れ替わりに二人の担任――メリアナ先生が近づいてきた。

「おはようございます。先生」

「おはようございます」

 二人は立ち上がり、丁寧にお辞儀をする。

「うん」

 黒縁めがねが印象的な先生だ。高いヒールを履いているせいで、心なしか厳しめの印象のある先生だが、実際厳しい。

 たくさんの生徒達がメリアナ先生の折檻に遭っているのは周知の事実――

 ある生徒は引きこもりに、ある生徒は自主退学に、ある生徒は熱狂的なファンに……。広い意味で謎めいた先生だ。

 長身で、黒髪をスレートに伸ばし、胸元が開いたスーツで立つメリアナ先生は、ろくに挨拶もせずアリスに便せんを手渡す。

「君のお兄さんからだ。規則により中身は拝見させてもらった。外出を認める」

 短く語り、メリアナ先生はさっさと食堂をあとにする。甲高い足音を響かせ、歩いている先生を見るなり生徒達は直立不動になっていく。

 黒髪を乱暴にかき上げる姿は、女臭さがにじみ出ている――何かの経験が豊富そうで、アリスは苦手だった。

「アリスのお兄さんから? なんて?」

 腰を下ろすなりリディアが珍しく興味を示す。

「まだ手紙を見てないから分からないですよ」

 人前で手紙を読むのは気が引けるので、アリスは丁寧にポケットにしまう。

「お兄さんはどんな仕事をているんだ?」

 今日のリディアは調子が狂う。

 半年もの間一緒の部屋で過ごしているが、身の上話にまるで興味を示さなかった彼女がアリスのお兄さんに興味を示しているのだ。

 複雑な気持ちになりながらも、自分の知りうる限りのお兄さんの事を語り出す。

「お兄さんは冒険者だったんですが、今はこの国の兵士として働いています。私を養うために、頑張ってお金を貯めてくれたんですよ」

 リディアは怪訝な表情をする――

 アリスは何かおかしな事を言ってしまったかと不安になった。

 アリスは記憶がない。そのことを誰にも話してはいけないとお兄さんから言われているため、言動には気をつけているつもりだ。今の発言にどんな不備があったのかと口が止まってしまった。

「冒険者……? じゃあこの国の外から来たってこと?」

 まずいと思った――この国に来る前の事は全く覚えていない。そのことを聞かれてしまったら誤魔化しきれない。

「そ、そうです」

「……そう」

 肩すかしを食らったアリスはその場を誤魔化すために、リディアに話させる事にする。

「リ、リディアは皇族ですよね、ご家族は?」

「……え? いるよ」

 考え込んでいるリディアは唐突な質問を理解できなかったのか、意図と違う答えを返してきた。

「えーと、兄弟とか?」

「そ、そうか。弟と妹が二人、あと腹違いの兄弟、姉妹が十人くらいかな……。流石に全員の顔と名前は一致しないかも……」

 目線を上げ、記憶を辿るように話し始める。話題を逸らすことに成功したようだ。

「そんなに兄弟がいるんですか? いいですね家族が多いというのは……」

「そうか? 私は正妃の子ではないから王位継承権も後ろの方だ。あまり実感がないが、上位継承者――義兄や義姉たちの権力闘争は目を覆いたくなるものだぞ。私達兄弟は逆にのんきなものだが……」

「そういうものですか……」

 兄と言っても、記憶がないアリスにとって、兄弟の認識がずれているかも知れない。アリスにとってお兄さんは兄であり、父であり、友人であり、男でもある。アリスはお兄さん以外の男と会話をした記憶もないからだ。

「お待たせしました」

 間近で見ると、明らかに値の張りそうなメイド服を着こなす女性がオムライスとイチゴミルクを運んできた。

 早速、イチゴミルクをおいしそうに飲んでいるリディアは先ほどのような難しい顔ではなく、むしろいつもより柔らかい表情をしている。

 オムライスを口に運んだアリスもまた満面の笑みがこぼれてしまう。

「おいしい。このトマトソースがたまらない……」

 アリスの表情を確認してから、リディアもオムライスを口へ運ぶ。

「こ、これは――」

 次の瞬間、リディアはアリスが見たことのない幸せそうな表情をした。

「――な、なんて美味しいんだ! こんな食べ物初めてだ!」

「いつも納豆ですもんね。たまには違う朝食もいいでしょう?」

「あぁ! このオムライスは私の好物2位にしよう」

 いつもより品の欠いた食べ方をしているリディアの姿に、女の子は食べ物が一番だと改めて思う。

 アリスも半年前はよく物思いに耽っていた為、今思うとお兄さんには心配を懸けていたと思う。そんな時、お兄さんは決まって美味しい食事を用意してくれた。

 オムライスを筆頭に、パスタやリゾットも美味しかった。そしてなんと言っても甘いもの。このイチゴミルクもお兄さんがよく用意してくれたものだ。今のアリスの味覚はお兄さんによって植え付けられたのかも知れない。

 その甲斐あってか、アリスは徐々に考える事を止めた。今の自分を受け入れることが出来たのは、お兄さんの気遣いと、美味しい食べ物に他ならない。

「そう言えば、広場にクレープ屋さんが出来たそうですよね。良かったら一緒に行きませんか? リディアも甘いものが好きそうですし」

「な、何を言っている! この私が甘いものなど……」

「そのイチゴミルクを美味しそうに飲んでいたのに、ですか?」

「こ、これは嗜む程度だ! 断じてイチゴクレープなど興味はない!」

 大袈裟に否定するリディアは、家柄を気にしているのか、乙女な所を見せない。

 アリスの観察したところでは、リボンといい、枕の下に隠している小さな猫のぬいぐるみといい、年頃の女の子と大差ない――寧ろ常人以上だと思っているのだが……。

 リディアは何かを思い出したのか、急にはしゃぐのを止め、押し黙る――

「どうかしたんですか?」

 リディアは情緒が極端な為、このやり取りも数え切れないくらいだが、今朝のリディアは何かあったのは間違いない。アリスはリディアの態度を斟酌する。

「……いや、何でもない」

「そうですか」

 今度は静かに食事を進める――賑やかな食事もいいが、それは相手あってのこと。リディアの気分を変えるためにオムライスを食べているのだから、あまり問い詰めるのは意味が無い。

 押し黙っていても見事に間食したリディアは、丁寧に口元を拭ったところで、アリスに質問をしてくる。本当に今日のリディアは調子が狂う。

「冒険者……か」

「――えっ、その……」

 再びお兄さんの話題が出ると思ったアリスは身構えてしまう。

「少し考えたんだが、いいだろうか?」

 会話の端々でなんとなく想像は出来たが、改まってこられると断りづらくなる。

「なんですか?」

 まるで説教をされるのを悟った子供の様に、アリスは畏まって肩をすくめた。

「アリスのお兄さんと会わせてくれないか? ルームメイトとしてきちんと挨拶しておきたい」

 嘘だと思う。冒険者と言うキーワードに反応したのは明らかだし、アリスたちを訝しんでいるのだろう。しかし、これから先もルームメイトである以上、いつぼろが出るかも分からない。 

 その点お兄さんに事情と現状を相談できれば、当事者のリディアを引き合わせた方が手っ取り早い気もする。

「どうして急に……」

 リディアは背筋を伸ばしたまま、凜としている。

「正直なところ、興味が湧いたのだ。アリスのような素敵な女の子のお兄さんとはどんな人なのだろうかと」

 それも嘘だと思う。

「それに……気晴らしもしたい」

 首を傾げ遠慮がちに微笑むリディアの表情はいつもと違う。それに駆け引きをする事など今までなかった。

 もともと実直に直感で行動するリディアは言い出したら聞かない女の子だが、それを言われるとアリスは断れない。リディアは意外に狡猾なのかもしれない。

「……わかりました。手紙を読んでからですよ? まだ会うと決まった訳ではありませんし」

「そ、そうだったな」

 リディアの真意が測れない以上、アリスが頼りに出来るのはお兄さんだけだ。


「――魔法と言うのは簡単に言ってしまえば自らの魂をさらけ出すことによって……」

 魔道学園と言っても魔法を実際に行使出来る者はほんの一握り、素質のある者達だけだ。

 基本的な教養として座学で学び、知識と言う形で素養を得る――素質をもっていても素養がなければ扱えないのだ。

「自らの体内に宿る魔力とは一部を除いて一定である。それは人である以上決まっている」

 リディアはいつになく上の空な様子で、学園の中で最も生徒に厳しい先生――メリアナ先生の授業にも関わらず、窓の外をぼんやり眺めている。

 一クラスに十人くらいしかいない割には、無駄に広々とした教室で響く生徒の朗読は、聞いている事が難しいくらい退屈だ。自ずと上の空になるのは必然だが、いつものリディアはそんな感情に従わない。だが――

 視界も頭の中もモヤモヤしていて、自分の意志とは無関係に頬杖をついてしまっていた。

 頭に浮かんでくるのは昨夜の光景――

 町に新しくオープンしたクレープ屋さんに行った帰りの出来事だ。

 自分が甘い物好きだと言うことを知られるのが嫌だったリディアは、学園の誰かに会わないようわざわざ時間をずらして店まで行ったのだが、少し遅すぎたせいでクレープ屋さんは終わっていた。

 消沈する気持ちをなんとかこらえて、とぼとぼ帰路へ向かっていると、正面から真っ黒なコートを羽織り、似合わないシルクハットを被った男とすれ違った。

 その男の顔は一瞬見えただけだが、何故か焦燥感に突き動かされたリディアは男を追って路地裏に向かい、あれを見た。

 真っ黒な悪魔と呼ばれた異形を、まるで赤子の手を捻るかのように駆逐したあの男は冒険者……。

 何故ガラキアスに悪魔がいたのだろう? あれはラザドール山を結界としてこちらにはこれないハズなのに……。

「――リディア、次を読め」

 宮廷魔術師、ベイルホーンの話とはまるで違う。悪魔は大陸の外でモンスターや死霊を食していると聞いていた。何故人を狙わないのかと聞いた時、ベイルホーンはこう言った。

 盟約――

 悪魔は外敵から人々を守ると言う盟約をしていて、ガラキウス魔道学園はその盟約の為に機能しているらしい。

 ベイルホーンの言うことなのだから間違いはないと思うが、昨夜見た光景はどう判断したらいいのだろうか? もしかして、ベイルホーンが嘘を……?

 ドンッという効果音と共に、頭が激しく揺さぶられる感覚――

 モヤモヤした意識が覚醒し、同時に伝わってくる激痛。

「――いったぁ!」

 頭を叩かれると咄嗟に頭を押さえるのは人間の本能なのかも知れない。

 リディアは片目を強く閉じ、涙を堪えながら魔道書の角で叩かれた部位を押さえる。

 見上げると、分厚い魔道書を持ったメリアナ先生が見下ろしている。

 無表情のままステッキを取り出すと、メリアナ先生は冷淡に告げる。

「リディア、お前にしては珍しいな。だが私の授業中に上の空とは随分いい度胸だ。褒めてやる」

 考えにふけっていたリディアは状況を理解するのに時間がかかっている。

「まず異空間に連れて行くことにしようか……」

 そう言ってステッキを軽く振ると、リディアの周りが暗黒に包まれる――

 普通の先生は絶対に使わないような魔法だが、メリアナは躊躇なく空間魔法を使用する。

「――ちょっ、待って!」

「これは仕置きだ、お前に決定権はない」

 メリアナ先生の放った暗黒の塊は、リディアを文字通り飲み込み、リディアが先ほどまで座っていた椅子も、閉じたままだった魔道教科書も飲み込み真っ黒な球体へと変わった。

「誰も存在しない暗黒空間だ。そこでしばらく反省しているといい……」

 返事はない、だが他の生徒は恐怖に戦く――

 ある生徒の噂では、あの球体に閉じ込められた者は二度と帰ってこないとか、生気を失い、老婆や蛙に変えられてしまうとか、色々な噂が立つほどあの球体は恐ろしい。

「では代わりに……、アリス、次を読め」

「は、はい」

 アリスの席は廊下側の一番前、対してリディアは窓際の一番後ろ。

 助け船を出せなかったのは仕方のないことだが、アリスは心の中でリディアに謝る。

「魔法の媒体となる物様々だが、主に精製した鉱石を用いて……」

 暗黒に囚われたリディアの事を思うと心苦しいが、明日は我が身、自分の事で精一杯だ。

 アリスはやっぱりメリアナ先生が苦手だった。

た。

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