願ったのは小さなことでした。

椿 千

プロローグ

「アイリーン!アイリーン!!」

どこにいるんだい?!


遠くから私を呼ぶ声が聞こえる。

そんなに大きな声で呼ばなくとも、兄のいた部屋からこの中庭までそう遠くはないのだから呼びつけてもらえばすぐに行くというのに、シスコンの兄には妹である私に来てもらうという発想がないのだろう。

だから隣の部屋にいると思っていた私が、その部屋の中にいないと気付き屋敷中を探し回っているのだから。

今年12歳になる私よりも七歳年上の兄、エドワード兄様は妹の私から見ても眉目秀麗、文武両道という言葉がふさわしい完璧な、それこそ物語に出てくるような王子様みたいな人なのに、私に対するシスコンっぷりだけが残念だ。

「エドにいさま」

私はここにいますよ。

そう主張するように名前を呼べば、一度納まった足音がこちらに向かってやってくるので、相変わらず私に関しての何かしらの魔法が働いているのではないかと思ってならない。

兄に言わせると、愛の力らしいのだが。

きっと数分も経たずにここまで来るのが容易に想像出来る。それと同時に私の穏やかな時間が終わってしまったことを悟って、膝の上に置いていたスケッチブックをそっと閉じた。

あと少しで完成だったのになぁ・・・白雪姫の話。

この世界にはない、私の好きな物語のひとつ。

まだ描き足りない気持ちはあるが、兄が来てしまっては静かに絵を描くことも出来ないので仕方ない。むしろ放置して絵を描けば「アイリーンは俺と遊びたくないの?!」なんて騒ぐのが目に見えている。

なので横に置いていた画材道具を片付け、スケッチブックと共に立ち上がれば長いワンピースの裾がひらりと揺れる。

4歳の誕生日に祖父母から贈られたフリルとレースが沢山ついた水色のワンピースは、私のお気に入りのひとつだ。それに画材で汚れないようにエプロンをつけている姿は我ながら、不思議の国の主人公のようだと思っている。頭にリボンもつけたら完璧だろう。

そのうちその話も描きたいなと思いながら、兄がいる方へ移動しようと思えばすっと目の前に白い手が差し出された。

視線をあげれば私付きのメイドであるリリアが柔らかな笑みを浮かべて、こちらを見つめていた。

「お嬢様、持ちます」

その言葉と共に私が大丈夫と言う間もなく、自然な動作で画材とスケッチブックが入った鞄を取り上げるリリアは本当に優秀な気の利くメイドだろう。私付きが勿体ないくらいだ。おまけに美人だし。

「ありがとう、リリア」

お礼を言えば、ニコリと微笑む姿は私なんかよりもよっぽど可愛らしくて、キラキラとしている金色の髪は正直羨ましい。メイド服ではなく、ドレス姿のほうが彼女には似合うのではないかと思うほど、私の周りにいる人たちはリリアを筆頭にきれいな人たちばかりだ。そんな中に地味な色彩を待つ私がお嬢様だなんて、何かの間違いではないかと何度目かになる自問自答をしたくなるが、私がこの家の娘であることは間違いのない事実だ。

……いや、本当にこんな平凡な私がお嬢様で飾りがいもないだろうに。

そんなことを思っていれば、私の体がふわりと宙に浮いた。

「アイリーン!やっと見つけた」

聞こえた声とぎゅっと抱きしめられる感覚。

視界に映る青空のような瞳と日の光を浴びて輝く金色の髪。

一気に高くなった視界に、兄に抱き上げられたのだということがわかった。

「にいさま」

「なんだいアイリーン」

目の前にある兄の整った顔は今はでろでろに溶けており、きちんとしてさえいればかっこいいのになぁとやはり残念に思う。

こんな顔を見たらきっと兄に惚れている女の子でも流石に冷めてしまうだろうから。

「にいさま、おべんきょうはおわったんですか」

「もちろん!アイリーンと遊ぶために早く終わらせてきたんだ!!」

それはいいのだろうか、と兄の後を追ってきたのだろう家庭教師の疲れた顔を見て思ったが、大丈夫だと頷いているので一応やることは終わらせたのだろう。それにニコニコと笑っている兄の顔を見ると戻れとは言えないので私はお疲れ様です、と労るように家庭教師の方に向かって頭を下げておいた。

「アイリーン、なにして遊ぼうか」

「本がよみたいです」

文武両道で運動神経のいい兄とは違い、私は運動は苦手だった。まだ幼い体ではバランスがうまく取れないからではないかと、思っていたが多分そういう才能がないのだろう。その証拠によく何もない場所で転んで、周囲に慌てて抱き起されるから。

それを兄も知っているから、私の言葉にわかっているというように頷くだけだった。

「アイリーンは本当に本が好きだね」

「はい、だいすきです」

もともと本は好きだったが、何より前の自分を思い出してからは一等好きになった。だって本には自分の知らない知識があふれているのだから。

「なら図書室に行こうか、アイリーン」

「はい!」

そう言って地面にそっとおろしてくれた兄は私に向かって手を差し出す。その手をきゅっと握り返しながら、記憶の中よりも低い視点で見える世界を見つめながらゆっくりと歩き出した。

そうしなければ、きっとまた転んでしまうから。いつもの癖で早歩きをすると、この体にはその歩調は合わないのだ。

「アイリ―ン?」

「なんでもないです」

呼ばれた名前に私は、意識を兄に戻す。そうすれば兄は安心したように笑うから。


アイリーン・ベッドフォード


それがこの世界での私の名前だった。

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