第397話 息つく間もなく、


 山積された本はいずれもかなりの厚さで、この町の滞在中には読み切れないくらいある。当面の間、外出できなくても暇することはなさそうだ。

 このあと急ぐ用はないというアイゼンをそばの椅子へ座らせ、トマサに人数分の飲み物を頼む。


「わざわざ手土産を持ってきたということは、兄への口利き以外にも何か用があったのではないか?」


「いや、この差し入れは紛れもない真心ですって、多少の下心も混じってますけど。まぁ、それ以外の用いうなら、ちょっとばかりあの魔法師の兄さんに話がありまして。ここに来れば会えるかなー思ったんですけど、やっぱ捕まりませんか」


「魔法師……、シオのことか?」


 その問いにうなずいたアイゼンは八朔のほうをちらりと見上げ、視線だけで他に誰もいないことを確かめると、姿勢をやや前に傾ける。


「こないだあの兄さんから、この町でお嬢様と会うまでのことをアレコレ訊かれまして。そん時は特に変わったこともなく、店で鉢合わせたのも偶然だって答えたんですけど。よくよく思い返してみると、そういえば誰かと待ち合わせしてたよーな気が、するようなしないような……」


「待ち合わせって、あの店でか?」


「ええ。約束があって行ったのに、今まで忘れてたなんておかしな話ですやろ? 誰と待ち合わせたのかも分からないモヤモヤが気持ち悪いんで、一応あの兄さんにも伝えておこうかと」


 未だ確信が持てないためか、首をかしげながら歯切れ悪く答えるアイゼン。同じような、たしかにあったことなのに覚えていない、という話はつい最近にも聞いたことがある。キンケードが教えてくれた、コンティエラにあの男が出没したときの目撃情報だ。

 その際は魔法ではなく暗示のようなものを使い、対面していた間のことを『記憶させない』という処理を施したのではないかという推測を立てたが、この件については未だ本人の口から解答を得られていない。


「あー、俺も同じようなこと訊かれたな。この町でお嬢と会う前のこと、何があって誰と話してどこを通ったかとか、結構しつこかった」


「それで、八朔は何と答えたんだ?」


「そのまんま全部教えてやったぜ。見張りの隙をついて檻から抜け出して、どっか休めるとこ探そうと思ってふらふらしてたら、薬と水があるから来いってお嬢が声かけてくれたんだ! あそこで行き倒れてたらそのまんま死んだかもしんねーから、命の恩人だ、です!」


 なぜか誇らしげに胸を張る八朔はすでに巻かれてた包帯が取れ、体の傷もうっすら赤く残るくらい。もうしばらくすればその痕もきれいになくなるだろう。

 失った右目だけはどうにもならず、今はコバックからもらったという黒い眼帯をつけている。


「へぇぇ、そらまた運命的な。ところで、その檻いうのは施錠されてなかったんです?」


「あー、なんか鍵は開いてたな。あいつらが閉め忘れたんじゃねぇか?」


 何でもないように軽い調子で答える八朔だが、無言で目を合わせてくるアイゼンの言いたいことは何となくわかる。

 今でこそ自由に振舞っている八朔は、イバニェス領とサルメンハーラ間の関係性を揺るがすような事件を起こした張本人だ。その犯人を捕らえ、身柄の引き渡しを長く拒んでいたほどなのに、牢の鍵を閉め忘れるなんて有り得るだろうか?

 収監中にひどい暴力を振るっていたようだから、傷ついて動けないと油断したのかもしれないが……、どうにも釈然としない。

 そもそも、あの男はなぜそんなことをアイゼンたちに訊ねたのだろう。この町へ来てから、否、来る前から起きている連鎖的な出来事の原因が自分にあるのでは、という疑いについて、まだ奴には何も話していないのに。


 それからしばらくカップ片手に雑談を交わし、シオがこの部屋に顔を出したら先の件は伝えておくと請け負ってアイゼンを見送った。それと一緒に八朔も手伝いへ戻り、とたんに部屋が寂しくなる。

 見舞いに持ち込まれた本を開こうかと考えたが、せっかく出歩く許可を得られているなら少し散歩をしてみよう。いつまでもベッドにいると、ただでさえ非力で体力にも乏しい体がさらに衰えてしまう。

 この階を貸し切っていると言うが、一室でこの広さなら相当大きな建物だ。フロアの端から端を歩くだけでも良い運動になりそうだし、ついでに誰かの部屋へ寄ってみようか。

 兄たちはいずれも外出しているから、いま在室しているのは――、


「トマサ、この階なら出歩いて構わないとのことだが、カミロの部屋へ行っても良いか?」


「ええ、勿論です。アダルベルト様からお仕事も外出も禁じられて、今ごろ暇を持て余しておられるでしょうから、きっとお喜びになりますよ」


「そうか、カミロも暇ならちょうど良い、アイゼンの手土産を分けてやろう。あいつも働き詰めの仕事中毒だからな、この機会にゆっくり羽根を伸ばすべきだ」


 積まれた本の中から適当なタイトルを選び取り、薄手のカーディガンを羽織らせてもらって部屋を出る。

 目覚めてから初めて扉の外へ出たが、長い廊下に同じような扉が規則的に並んだ不思議な造りをしていた。宿泊施設というのは皆こういうものなのだろうか。

 トマサに手を取られながらゆっくり歩く。これまでも熱を出して寝込むことが何度もあったけれど、その後は決まって体が重くなり歩くのにも苦労する。早く回復させないと、自分のせいで屋敷へ戻る日程が遅れるなんてことにもなりかねない。

 長い廊下を渡り、一度端まで歩いて行って、戻る途中にカミロが使っているという部屋の前で止まった。

 ノックをするとすぐに返答があり、トマサが扉を開けてくれる。


「カミロ、見舞いに来たぞ。調子はどうだ?」


「リリアーナ様? 申し訳ありません、斯様な場所までご足労を頂いて、」


「いや、先触れもなく来て驚かせたか。ちゃんと話は聞いているぞ、静養するためにこの部屋から出てはいけないと兄上に厳命されているのだろう?」


 かけていたソファから慌てて立ち上がるのを手で制し、笑いの混りに言葉をかけると、カミロは居心地悪そうに眼鏡の位置を直す素振りをした。

 その反対の手には文字のぎっしり書かれた紙束が握られ、そばのサイドテーブルにも同じような書類が重なっている。

 一瞬、何だろうと思ってから部屋に踏み入り、置かれた書類を一枚取り上げた。ざっと目を通しただけでも再建費用概算だの序列新案だのといった単語が並んでおり、明らかに執政に関わりのある内容だと見て取れる。


「お前……、なぜこんな所で仕事なんかしているんだ?」


「いえ、これは」


 言い訳は口にする前に諦めたようで、言葉をそこで切ったカミロは仕分けられていた書類をひとつにまとめると、封筒の中にすべて収めてテーブルの端へ置いた。封筒の右端に捺された凹凸の紋章は、イバニェス領のものではない。


「それはサルメンハーラの?」


「はい。頭領殿があんなことになってしまって、今は残された文官や金歌殿が中心となり立て直しの最中ではありますが。意見を聞きたいと依頼されまして、いくつか案件をお預かりいたしました」


「兄上たちが手伝いに赴いているというのに、療養中のお前までこき使うとは呆れた根性だな」


 部屋を出ていないしただの頼まれ事だから命令は守っている、なんて詭弁を弄する男ではないが、わざわざこんなことを引き受けるほど暇だったのだろうか。

 いや、アダルベルトたちがサルメンハーラ側から請われて指揮代行をしていることは十分承知のはず。そんな状況の中、カミロが兄の頭上を飛び越える形で領事館の仕事を受けるとは考えにくい。

 気にしていない風を装い、手にしていた書類を置かれた封筒の上に重ねる。……手近な紙ではなく、カミロの手中にある紙束を奪うべきだった。これに気を取られている間に他の書類を片付けたのは、むしろそちらの方が自分の目にふれさせたくない内容だったから、と思えてならない。込み入った内容だからこそ、サルメンハーラ側もアダルベルトを通さずにカミロへ相談を持ちかけたのでは?

 そんな疑念が浮ぶものの、部外者である自分が封筒に収められた書類まで見せろなんて言えるわけもなく。空いている椅子に腰かけ、ふんぞり返るようにしてソファのカミロへ顔を向ける。


「今回だけ目をつぶる、兄上には言わないでおくから、大人しく養生していろ。この機を逃すと、今後もゆっくり休む暇なんてないかもしれないぞ?」


「むしろ何かしていないと気が休まらないのは性分でして、ご心配をおかけいたしました」


 殊勝に応える男は別の意味で「見逃された」ことを理解しているのだろう。ソファに座ったまま居住まいを正すと、胸に手をあててこちらへ礼を向けた。


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