第362話 暮夜のリフレクシオ③


 掴む手はしっかり握り、次の手を伸ばして掴むまで決して放さず。ゆっくりと、足を踏み外さないよう慎重に梯子を上る。

 高所に対する恐怖心はないけれど、もし少しでも足を滑らせれば下で見守っているであろうカミロが肝を冷やすし、今後こういう行動の自由を与えてもらえなくなる可能性が高い。

 運動能力よりも肝心な時の慎重さを買われたのだとわかっているから、やや過ぎるくらいに注意深く手足を動かした。


 そうして辿り着いた先の物見やぐらの頂上は、下から見たときよりも意外と広さがあると感じた。

 立ち上がって見回せば灯りの落ちた周辺の建物に、ずらりとならぶ倉庫の屋根。その向こうには町を囲む外壁が続き、正門のあたりには篝火にぼんやりと照らし出された奇妙なかたまりが見える。

 夕方にちらりと目に入った羽根色が見間違いでなければ、おそらくあれは極楽鳥だ。レオカディオが途中で見つけて、町まで連れてきてくれたのかもしれない。


「……リリアーナ?」


 眺望に気を取られたのなんてほんの瞬きの間なのに、先にアダルベルトから声をかけられてしまった。

 別に忍び寄るつもりはなかったけれど、大した物音もたてていないのに。応答と挨拶の言葉に迷い、「うん」とだけ返して櫓の中央部を回り込む。

 コの形に造られた風除けの中を覗くと、アダルベルトは河原にいた時のように、エトを抱えたまま座っていた。スペースには余裕があるけれど、あえてその隣に身を押し込むようにして座り込む。

 風避けの柵と兄の体温のせいだろうか、こうしてくっついていると思いの外温かい。


「どうしたんだ、こんな夜更けに」


「それはこちらの台詞でもあるんだが。やはり寝付けないのか?」


 下からの仄かな灯りと月明りではあまり見えないけれど、アダルベルトの目に浮かぶ不健康な隈は多少休んだところで取れそうもない。明らかな睡眠不足は、一体いつからのものなのか。

 下ろした髪に隠れる表情を横から見上げながら、酒場で荒れていた姿を思い出す。

 普段の落ち着いた姿からは想像もつかない泥酔。体中から酒の匂いを漂わせて、一晩で一体どれだけ呑んだのか。だが、タイリングに込めた石の効果で体内の酒精は相殺されていたはず。

 ……だから、あの時のアダルベルトは、本当は酒になど酔っていなかった。朦朧としながら漏れた言葉は、本心に近いものだったろう。

 疲労の原因や気落ちの原因へ直截にふれるのはためらわれて、何となく話題を変える。


「エトはまだ目を覚ましそうにないな」


「ああ、うん……。これまで寝ているところなんて見たことなかったから、ちょっと不安だ。トカゲも睡眠は取ると本に書かれていたけれど、ドラゴンだとやはり違うものか?」


「ドラゴンは生物だから睡眠を取るが、翼竜はまた別だからな。もしかしたら眠っているというよりは、消耗した力が戻るまで停止しているだけなのかもしれん」


 たまに羽根がぴくりと動いたりしているから、死んでいないのは確かでも、休眠中の翼竜なんて自分も初見なので確かなことは言えない。

 内臓や血管まで精細に作り込むのを好んでいたセトとは違い、エトは中身まで生物に寄せていなかったと記憶している。だからこそ、収蔵空間インベントリの判定もすり抜けたのだろう。

 あの異空間は生物を入れることができない反面、石化や時間停止などの措置がなされたモノは、それがまだ生きていても植物などと同じく『生き物ではない』と判断され収納できてしまうのだ。


「エトの名を知っていたということは、これまで会話をしたのだろう? 兄上は翼竜について何も訊ねなかったのか?」


「いや……うん……そうだな……」


 口元をもにょもにょと動かすアダルベルトは何か言いにくそうにしてから、視線を逸らして間を置きながら言葉を繋いだ。


「実は……、その、最近ずっと疲れていたものだから……。こいつに色々と話しかけたり愚痴を零したりすると、頭の中に声が聞こえてきて。そういうの全部、精神的な疲労から来る幻聴だと思っていたんだ……」


「げ、幻聴……」


 まぁ、念話という魔法を知らなければ、そう思うのも無理はないだろう。

 部屋に転がり込んできた小さなトカゲがまさか精霊種だなんて想像もしないだろうし、アダルベルトが良く見ていた書斎の図鑑などにはそもそも載ってすらいない。


「慰めてくれたり、励ましてくれたり。全部、俺に都合の良い幻聴なんだと思って。それでも、こいつを撫でながら悩みを零していると気持ちが落ち着いたから、情けない話をたくさん聞いてもらったなぁ。……だって、トカゲだと思っていたんだ、まさか人間の言葉を理解しているなんて、」


 片手で顔面を覆いながら、アダルベルトは「今になって恥ずかしい」と肩を縮こまらせた。

 

「まぁ、理解していると言っても中身はまだ子どもだから、難しい話はあまりわかっていないだろう。ヒトの精神年齢で言えばわたしと同じくらいだと思う」


「リリアーナを例えに出すのは、基準としてちょっとどうかと思うんだが……。そうか、見た目通りまだほんの子どもなんだな」


 愛しげにそう呟き、羽毛に覆われた首筋を人差し指の背でそっと撫でる。

 こんなに優しい声は自分だって向けられたことがない。実の妹として何となく悔しいような気もするけれど、心からエトのことを大切にしているのが伝わってくる。


「……裏の森から迷い込んだなら、暖かくなるまで面倒を見てやろうと部屋で世話をしていたんだけど。あの頃、カミロや使用人たちが屋敷に入り込んだ小動物を駆除するとか言って、バタバタしていたから。もしこいつが見つかれば森に帰すどころか殺されてしまうと思って、誰にも言えなかったんだ」


「そうだったのか」


 その害獣駆除騒動も、元はと言えば自室の天井を駆けるエトの足音が発端だし、そもそもの事の起こりは知らない間に収蔵空間インベントリへ入れ、そして知らない間に収蔵空間インベントリに繋がる細い路から出してしまった自分の責任だ。

 原因がわかってスッキリとはしたけれど、あの時もっと辛抱強く捜索してエトを見つけ出していれば、アダルベルトの誘拐騒ぎなんていう何倍も大きな問題は起きなかった。

 本当に、いつもいつも起きてしまってから悔いてばかりだ。


「兄上、実はその翼竜が屋敷に紛れ込んだのは、わたしのせいなんだ」


「リリアーナがこいつを? どこからか連れてきたのか?」


「その、何というか、そこにいると知らないまま放置してしまったようで……、天井裏の隙間を通って、兄上の部屋へ入り込んだのだと思う。だからあの時の騒ぎも、元はといえばわたしが原因だ。迷惑をかけてすまなかった」


 頭を下げてから顔を上げると、首元の隙間からもわりと白い呼気のようなものが漏れる。それを見て驚いたらしいアダルベルトに、被っていた外套の留め具を解いて片側を肩へ回すように渡した。

 すぐに意図は伝わったようで、互いに肩を寄せ合ったまま大きな外套に包まる。


「これ、すごく温かいな?」


「自警団のものを借りてきた。中に暖気の魔法を込めているんだ」


「魔法か、リリアーナは多才だな。優しくて賢くて、至らない兄をこんな所まで追いかけてきてくれる自慢の妹だよ。本当に、俺にはもったいないくらいに」


 肩を寄せ合う体勢から少しだけ体を持ち上げられて、アダルベルトの足の間に収まった。腕の中にはそっと預けられた翼竜の仔。

 なるほど、ひとり用の外套に包まるなら横並びよりもこの格好のほうが隙間もなく温かい。

 兄の両腕に囲まれるまま背中を預けると、衣服越しに伝わる体温にほっとする。


「迷惑だなんて思わないよ。リリアーナのお陰でエトと会えたんだから、感謝しないといけないくらいだ」


「それでも、こんな大きな騒動の原因を蒔いたのはわたしだから謝罪はさせてほしい。……それと、エトの世話をしてくれてありがとう。見つけたのが兄上で良かった」


 なぜあんな大きな飛竜ワイバーンに化けてまでアダルベルトを攫ったりしたのか、その辺のことはエト自身に訊いてみないとわからない。だが聖堂を襲った時の様子を見る限り、エトが兄に懐いているのは確かだ。

 無理矢理にでも屋敷から連れ去ることで、アダルベルトを悩ます職務から遠ざけたかったのだろうか。

 腕の中に収まった小さな翼竜は未だ目を覚まさない。

 エトが起きたら、何て説明をしよう。収蔵空間インベントリへ紛れ込んでいた件を謝ろうにも、この姿の自分がデスタリオラだなんて信じてもらえそうにないし、そもそもあれから四十年以上経過していることに気づいているのかどうか。


 どうにもこの町に来てから頭痛の種に事欠かない。次から次に色々あった上に未だほとんどが未解決のままだけれど、それでも、一番の目的であるアダルベルトの救助は叶った。八朔の身柄も押さえることができた。

 何か取りこぼしはあっても大事なものさえ守れれば、今の自分には十分すぎる。

 背に感じる兄の鼓動と、手の中の小さな温もりに安堵し、リリアーナはそれまで強張っていた肩の力を抜いて体重を預けた。


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